長尾為景の成功と失敗
室町時代後期から戦国時代にかけては各地で名門守護が衰退し、代わって守護代が力を増してついに下克上に至る、という現象が見受けられたが、越後もまた例外ではなかった。
越後においてその実行者となった人物こそ、謙信の父・為景(ためかげ)である(ただし、既にその以前から上杉家と長尾家の対立と内乱は始まっていたともいう)。
1506年(永正3年)に父・長尾能景(ながお よしかげ)が一向一揆との戦いで戦死したことからその跡を継いだ為景は、翌年には越後守護・上杉房能(うえすぎ ふさよし)打倒の兵を挙げる。
その原因は「房能が家臣の讒言を信じて為景を倒そうとしたので、為景が先手を打った」とも「房能の政治が苛酷であったため、これを止めるために為景は兵を挙げた」とも伝わるが、定かではない。父・能景の時代に房能がそれまでの慣例を無視して国人たちの領地を没収したことから、能景ら越後国人に不満が募っていたとされるため、そうした対立構造の結果としてこの内乱に至ったのではないだろうか。
結果として為景は房能を自害に追い込み、その養嗣子・定実(さだざね)を越後守護として祭り上げ、幕府の公認を得ることにも成功する。
ここに越後初の下克上は成ったかにみえたが――事態はそう甘くはなかった。むしろここから長年にわたる越後の動乱と為景の苦難の日々が始まるのだといっていい。
この時期、山内上杉家の当主として関東管領の地位にあったのは、越後上杉家出身で房能の兄に当たる顕定(あきさだ)だった。
1509年(永正6年)、弟の復讐に燃える彼の攻撃と国人衆の離反に耐えかねた為景は一時越中に逃れたが、翌年には舞い戻って顕定を打倒。弟と同じく自害させてしまった。さらに自身が守護とした定実とも対立し、実権を奪い取った。
こうして見事に下克上を達成したにもかかわらず、為景による越後統治はなかなか安定しなかったようだ。
その原因は、越後国内に大小存在する勢力がすべて為景の忠実な家臣というわけではなく、上杉氏、長尾氏、そして各地の国人たちが度々「反為景」の動きを見せたことにある。特に阿賀野川より北、下越に領地を持つ国人たち――「揚北衆」には半独立の気運が強く、先述した上杉顕定の越後侵攻の際など、度々為景の敵側について彼を苦しめた。
これに対して為景は幕府や朝廷と積極的に交流、嫡子に時の将軍・義晴から一字をもらって「晴景」を名乗らせるなど権威の向上に努めた。本来同格の国人たちに対して、「自分は幕府や朝廷をバックにした一段上の存在である」とアピールしようとしたわけだ。
それでも結局、為景の治世下において越後の混乱は治まらず、越後統一と国人の掌握は次代に託されることになる。
為景は独自の意志で動く国人衆をまとめ上げられるカリスマになれなかったのだ。