お城全体の平面プラン・グランドプランのことを縄張(なわばり)と言います。
縄張は城づくりの基本中の基本で、この縄張によって城全体の形が変わってきます。
お城巡りのときはこの縄張を辿っていくと築城者の意図が読み取れるかもしれませんね。
今回は城の大事な縄張について見ていきたいと思います。
縄を張って測る
お城全体の平面プラン・グランドプランのことを縄張(なわばり)と言います。
縄張は城づくりの基本中の基本で、この縄張によって城全体の形が変わってきます。
縄を張って曲輪(くるわ)などの位置は配置を決定したことから「縄張」(なわばり)と呼ばれるようになりました。
縄張とは城づくりにあたって、本丸、二の丸、三の丸などの曲輪(くるわ)をどう配置するか、防御のための堀や土塁をどこにどのようにめぐらせるか、城の出入り口はどうするのかなどの基本的なことを決めるグランドプランのことです。
城は防御拠点ですから、縄張り如何で防御機能か優れているかどうかが決定される重要な工程です。
中世の縄張
中世の城は山を利用した山城が多く、自然を生かした縄張が特徴です。
山の中なので起伏が激しく、平らな部分がほとんどありません。
そのため、一般的には山頂部分を削って平らにして本丸としました。
その下の尾根に二の丸や三の丸を造っていきました。
また、曲輪の形状も地形に合わせて作るため複雑になりました。
城主の居館や城下町などは山麓か他の場所に作られ、城と一体化していませんでした。
ちなみに曲輪の名前は二の丸、三の丸などと数字で言うものもあれば、西の丸、東の丸などと方角で言うもの、帯曲輪(おびぐるわ)、腰曲輪(こしぐるわ)、水の手曲輪(みずのてぐるわ)などの名称もあります。
近世の縄張
近世になると城が平地に作られることが多くなりました。
平らな部分が増えたため、縄張りも広くなり、形も四角などが多くなりました。
城主の居館である御殿や櫓、門、水堀などいたるところに作られ、城の周囲に城下町を構えるようになりました。
江戸時代には縄張りを研究する「軍学」という学問が盛んになりました。
儒学などの学問とともに大名の教養とされたのです。
荻生徂徠(おぎゅうそらい)、山鹿素行(やまがそこう)という当時有名な儒学者によって大名たちに伝えられました。
しかし、江戸時代に新たな城を造ることは武家諸法度(ぶけしょはっと)によって元和元年(1615年)から禁止されていたため、軍学は机上の学問だったようです。
まとめ
城の平面設計のことを縄張(なわばり)と言います。
それは城全体の防御機能をどのように持たせるのかという大変重要な、城づくりの基本です。
ということで、城のグランドプラン・縄張のお話でした。
じゃあね🖐️
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