明智光慶は光秀の嫡男だ。幼名は十五郎とするのが一般的だが、近年になって「十兵衛」ではないかという説が上がってきている。
光慶は1569年(永禄12年)の生まれであるという。
光秀がかなり晩年になってからの子どもということになる(1528年生まれ説を取るにしても、40歳を超えている!)。
側室を数多く持って男児を生ませ、その子に跡を継がせるのが当たり前の時代に、正室しか持たず、その妻に長い間男児がなかったこと。そうしてついに生まれたこと。光秀夫婦の感動いかばかりかと思うが、残念ながらこういうことは史料には残らないので推測するしかない。
……と、ここまで書いておいてなんだが、光慶の1569年生まれ説は明確に史料的根拠があってのものではなかったりする。
悲劇性を高めるため「本能寺の変」当時の光慶が幼かった方が都合が良いと創作されたものかもしれない。ただ、光秀の子がもっと年嵩であれば織田家重臣の子として合戦の中に姿を見せていたのではないかと思うので、実際にそのくらい幼くともおかしくないのは事実だ。
光慶の存在が歴史の表舞台に出てくる機会は非常に少ない。
その貴重なもののひとつが「本能寺の変」直前に光秀が催した句会――謀叛の意図を込めたとされる「ときは今 あめが下しる 五月かな」で有名な、通称「愛宕百韻」のときのものだ。この時、光慶は父とともに出席している(そしてここで彼の名前が十兵衛と記されているからややこしい)。
いまひとつ、光慶の存在が出てくる重要な史料がある。
「本能寺の変」後、光秀が盟友・細川藤孝に送った「明智光秀覚条々」と呼ばれる手紙の中に彼の名前が出てくるのだ。
この手紙の中で光秀は私心による謀反ではないと主張し、状況が落ち着いたら藤孝の子の忠興や我が子・十五郎(光慶)らに立場を譲る(だから自分に協力してくれ)、と訴えているのである。
結局藤孝らが光秀に味方することはなかったわけだが、光秀としては息子に期待するところは大きかったのではないか。
さて「本能寺の変」の時、光慶が何をしていたのかは諸説ある。
父の行いを嘆くあまりに病死してしまったとか、もともと病の床に伏せており光秀が死んだのと同じくして亡くなったとか、他の家族とともに坂本城で死んだとか。
これらの死にまつわる物語について信憑性のある史料には乏しく、こういう人物にありがちな展開として生存説も多数語られている。出家して僧侶になったという説が複数あるほか、上総へ逃げて市原で子孫を残したのだとなどという話も語られているけれど、すべて俗説の域を出ない。