名古屋市にある徳川美術館にいってきました。
ちょうど薄田学芸員によるギャラリートークが開催されていたので参加してきたのですが、戦国合戦図の成り立ちや、その位置づけについてわかりやすく教えていただきました。
以下、手元にメモしてきたことをシェアしますね。
「合戦図~もののふたちの勇姿を描く~」ギャラリートーク
中世の合戦図
- 合戦図の最初は13世紀頃、鎌倉時代に軍記物語の物語絵(絵巻)として天皇や公家たちが楽しんでいた=合戦絵巻
- 後白河法皇がこうした絵巻のコレクターとして有名だが、源頼朝はまったく興味がなかった(自慢のコレクションを見せてやろうと誘ったのに断ったらしい)
- しかし三代・源実朝の代から武士の間でも合戦絵巻が注目されるようになる。これは「平家物語」など主君のために命がけで戦う者や、家族や兄弟のために戦う者など、武家の理想像と呼べる姿が描かれているため、教育目的で使われた。このように合戦図は注文者によって描かれる内容や目的が変わる
- 敵を攻めている軍勢の顔が描かれていないなど、鑑賞者の視点を意識している(軍勢の後ろから見ている)
- 「異時同図法」(1枚の絵の中に同じ人物の異なるシーンが描かれる)が用いられている
- 「蒙古襲来絵巻」では竹崎季長が兜をかぶらずすね当てを頭に巻いていたり、自分の装備を持たない足軽が左右で異なる武具をまとうなど(敵から奪ったもの)、かなり正確に描かれている
- 室町時代には御伽草子が生まれ、そのなかには「芦引絵」など仇討ちや鬼退治などを題材にした合戦絵巻も描かれた。また「てこくま物語」には室町時代には珍しく、山城の様子が詳細に描かれている
合戦図屏風の登場
- 合戦図は室町時代後期から大画面化していく(合戦図以外の祭礼図や洛中洛外図なども同じ)
- 「平家物語」や「源平盛衰記」など源平合戦をテーマにした合戦図は大量に描かれたが、一ノ谷や屋島が中心で壇ノ浦の戦いを描いたものが少ない。これは安徳天皇が亡くなることと、平家という武家の滅亡を描くことになるので避けたのではないか
- 合戦図屏風は大きく、(1)1000人をこえる大軍の合戦を描いたもの、(2)特定の人物をクローズアップして描いたもの、にわけられる
- (1)のパターンは戦場を大観的に捉え、無数の武者を描くことで臨場感や迫力を伝える
- (2)のパターンはおもに異国への贈答品に使われた、これは幕末までおこなわれており、お抱え絵師の頭領クラスが描いている。具体的には那須与一が弓で扇を射るシーンなど。
江戸時代の合戦図
- 江戸時代には岩佐又兵衛などが合戦絵巻(展示は「堀江物語絵巻」)を手がけ、新しい表現を模索した。ほかには狩野探幽の養子である狩野益信や谷文晁など
- 「源平合戦押絵貼屏風」は狩野安信が描いたと伝わる
- 「東照社縁起絵巻」は狩野探幽が描いている
- 「平家物語」を題材にした合戦図(絵巻・屏風)の特徴は「(描かれている)人物がわかる」「地理が不正確」、一方「関ヶ原合戦図屏風」では「家康以外、誰かわからない」「地理・地形は正確」といったちがいがある。とくに「関ヶ原の戦い」については(活躍したのが豊臣恩顧の武将たちという)家康にとって不本意な勝利だったため、わざと人物をわからなくしたと思われる
- 「長篠の戦い」は数多くの合戦図が描かれており、最古とされる犬山城主・成瀬家が描かせた「成瀬家本」(犬山城白帝文庫所蔵)以外にも、大阪城天守閣蔵の「大阪城本」や徳川美術館蔵の「徳川家本」など多数あり
- 「成瀬家本」では成瀬正一、正成親子の活躍を特徴的に描いており、また豊田市郷土資料館蔵の「豊田市本」では渡辺守綱の活躍を強調するなど、多くの合戦図屏風は注文者が特定の人物(先祖など)をクローズアップして、武功を称える(顕彰する)ために描かれた
- 一方で、幕府が描かせた「長篠合戦図屛風」の下絵には馬防柵に迫る武田軍や馬場信春の活躍を描いたり、「関ヶ原合戦絵巻」では石田三成や大谷吉継をメインに描くなど、敵方の武将を讃えるケースもよくある
「大坂冬の陣図屏風」の発注者は誰なのか
最後に今回の特別展の目玉でもある「大坂冬の陣図屏風」は誰が描かせたのかという話になりました。
NHK「歴史秘話ヒストリア」でも特集していた内容ですね。
先に「歴史秘話ヒストリア」で見た情報を補足しておくと、こんな内容でした。
- この屏風には大坂城が大きく描かれ、また「今福・鴫野の戦い」や「真田丸の戦い」など豊臣方の勝利のシーンが描かれていること、さらに徳川家康と秀忠は右端に描かれているから、発注者は豊臣方で、豊臣秀頼本人が和平を記念して描かせた可能性が高い
- その裏付けとして、この絵が未完成なのは冬の陣のあとに発注され、夏の陣により発注者の秀頼が亡くなったため中断して未完成になったとも考えられないか
- ただし「築山(つきやま)」など豊臣方が知りえない情報も描かれているので、幕府側(徳川秀忠)が描かせた可能性もあり
現時点でまだ注文者は確定していないことを踏まえて、薄田学芸員がおっしゃっていたのは、
- この絵(模本)が徳川方にあったことは無視できない(御用絵師集団・狩野派の絵師に貸し出された記録もある)
- 大坂城が目立つように描かれているが、敵の館を中心に描く構図はある意味では合戦図の王道である(「保元合戦図屛風」でも白河殿がメインに描かれている)
- 先のとおり、敵方の活躍を描くことも珍しいことではない
ということを考えると幕府が描かせた可能性が高いのではということでした。
ちなみにこの「大坂冬の陣図屛風 デジタル想定復元」は東京国立博物館が所蔵する「大坂冬の陣図屏風 模本」を科学的な調査にもとづき、本来の姿を想定してデジタルで復元したもので、撮影も可能です。
細部を見てるだけでも楽しいですよね。
大坂城にいる豊臣秀頼と淀君
真田丸の戦い
徳川秀忠の本陣
秀忠の本陣で首実検がおこなわれているのはじっくり見ないと気づかないですよね。
ものすごく細部まで精密に描かれているので、ほんとにすごい合戦図屏風です。
この特別展「合戦図~もののふたちの勇姿を描く~」は今週末までなので、気になる方はお早めに!