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【10大戦国大名の実力】織田家①――後継者の実力で組織の命運は決まる

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魔王を生んだ家系

最近では戦国時代ファンの趣味嗜好もすっかり多様化した感がある。
とくに「歴女」と呼ばれるような女性の歴史ファンなどには、真田幸村や伊達政宗、石田三成に直江兼続といった「ヒーロー風」キャラの人気が高い。

それでも、戦国武将人気ナンバーワン、もしくは仮に「戦国武将といわれて誰を思い浮かべますか」というアンケートをとった時のナンバーワンには文句なく織田信長の名前が出てくるはず。
「戦国の覇王」「第六天魔王」「革命的先見の明の持ち主」あるいは「狂人」「戦国時代を終わりに導いた男」――信長の異名は数限りなく、それは同時に彼が戦国日本に与えた影響の大きさを表している。数多い戦国時代のカリスマのなかでも、ずば抜けた一人といっていいだろう。

しかし、信長は突然変異の如くこの世に現れたわけではない。
彼は父・信秀の築いた基盤の下に自らの革新的な政策と野望を実現しようとした。だがその夢は突然の謀反――本能寺の変によって失われ、残された息子たちはそれぞれに父の勢力を継承しようとして失敗。時代は豊臣政権へと移り変わっていったのである。

そこで、本章では信長の事跡よりもむしろ信長以前と信長以後に焦点を絞り、織田という家について論じてみたい。そこでテーマとなるのは「後継者の資質」である。

信長は平氏の子孫か?

現在伝わっている織田氏の家系図は、先祖として平資盛(たいら の すけもり)という人物を置いている。
彼は平安時代末期に平氏政権を築き上げた平清盛の子・重盛の次男で、他の平氏一族と共に壇ノ浦の戦いで源義経と戦い、敗れて死んだ。

しかし、実は資盛には身重の妾がいて、生前に京へ隠れさせていた。
彼女は無事に親真(ちかざね)を産んだ後、近江国津田荘へ逃れる。その後、親真は越前国丹生郡織田荘・織田劔神社(つるぎじんじゃ)の神官の養子になって織田氏を称する。その十七代目にあたる子孫が信長である――というのが、複数の系図で大まかに一致する織田氏の流れである。

これはどうやら信長の宣伝工作の一環として創作されたものであるらしい。すなわち「源氏の名門・足利氏の室町幕府に代わって天下を取るのは、源氏の前に天下を治めていた平氏出身の自分である」というわけだ。
その証拠に、織田一族のものや信長自身が「藤原」を本姓として名乗っていたことを示す史料がいくつか見つかっている。ただ、この藤原姓自体も便宜上名乗っていたものにすぎず、元々の祖は忌部(いみべ)氏ではないか、という見方もあり、はっきりしないのが実際のところだ。

それでも、信長の先祖が織田劔神社の神官であったことは間違いないようだ。
この越前の織田氏が、室町時代初期には越前国守護・斯波氏に仕えていた。斯波氏は室町幕府において将軍の補佐役である「管領」の役職を務めた三管領家の一つで、足利一族のなかでも名門だった。
斯波氏がそれまでの地位に加えて尾張国守護の地位を与えられると、家臣団のなかから織田常昌(おだ じょうしょう)というものが選ばれて守護代を務めることになった。応永年間の頃のことであり、以後織田氏は尾張を本拠地とすることとなるのである。

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