明石城には一度も天守は築かれませんでしたが、築城時から天守台はありました。
この天守台は上面の大きさが東西25m、南北20m、約152坪で、5重の天守が乗る規模です。これは熊本城の天守と同規模です。
石段のところに城内唯一の転用石がありますが、おそらくはなにかの願掛けだと思われます。
なぜ天守が築かれなかったのか
残念ながら理由はわかりません。
建築費用を節約しつつ、ただし必要があればいつでも建てられるように天守台のみ築いておいたとも考えられますし、当時の主力兵器である大砲の標的になりやすい天守は――とくに「大坂の陣」でその威力を敵味方に見せつけたあとだったこともあり――不要と考えられたのかもしれません。
また通常なら本丸の隅に築くはずの天守台がなぜこの位置にあるのかについても疑問が残ります。
明石城(1619年)とほぼ同時期に建てられた篠山城(1609年)や尼崎城(1617年)はいずれも本丸の隅に天守台が築かれています(篠山城は天守台のみ、尼崎城は4重の天守が築かれた)。しかし明石城は四隅それぞれに三重櫓が建てられ、さらに南西隅の坤櫓の北側に天守台が築かれました。
これは当初から天守を築く計画がなかったからなのか、あるいは砲台としての利用意図があったからか(だとすれば西側にあることの説明はつく)、この理由についても不明です。
中津城からの天守移築計画
明石城には中津城からの天守移築計画がありました。
当時の状況を以下に示します。
1600年(慶長5年) | 細川忠興が豊前国と豊後国2郡39万石で入封。大修築を開始する。 |
---|---|
1602年(慶長7年) | 小倉城築城に着手し、忠興は小倉城を主城、居城とする。修築中の中津城の城主は細川興秋になる。 |
1621年(元和7年) | 扇形の縄張りに拡張され、中津城が完成。 |
小笠原忠政が明石城の築城を開始したのは1619年(元和5年)正月ですから、中津城の拡張に伴い、天守を新規に築き直す計画があったのかもしれません。
また細川忠興にとって小笠原忠政は息子・忠利の義理の弟ですから藩主就任のお祝いのようなこともあったのかもしれませんが、いずれにせよこの計画が実現されることはありませんでした。
国内のおもな天守台の広さ
比較のために国内に残るおもな天守台について、上面の広さを調べてみました。
城名 | 上面規模 | 備考 |
---|---|---|
明石城 | 東西25m、南北20m | 高さ約3.6m |
江戸城 | 東西約36m、南北約40m | 底面:東西約41m、南北約45m(※地中に埋まってる部分あり) |
姫路城 | 東西約28.3m、南北約20.6m | |
佐賀城 | 東西約26.5m、南北約30m | |
高松城 | 東西約22.6m、南北約21.6m | |
津山城 | 東西約19.7m、南北約21.6m | 高さ約5.9m |
二条城 | 東西約19.6m、南北約21.7m | |
篠山城 | 東西約18m、南北約20m | |
郡山城 | 東西約16m、南北約18m | 底面:東西約23m、南北約25m、高さ約8.5m |
赤穂城 | 東西約15m、南北約17m | 底面:東西約20m、南北約22m、高さ約10m |
小諸城 | 東西約12.3m、南北約12.3m |