明石城
明石城

[兵庫県][播磨] 兵庫県明石市明石公園1-27


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.42(72位)
  • 見学時間:1時間1分(69位)
  • 攻城人数:3153(30位)

三の丸(本三の丸)

三の丸は本丸の南側、現在の明石公園の西芝生広場と野球場(明石トーカロ球場)のあたりにあった曲輪です。
築城時は「大曲輪」とも呼ばれ、藩主の別邸である御下屋敷と13軒の重臣屋敷がありました。東西二八〇間(509m)、南北一〇六間(193m)、面積約4.2haの広さでした。

播磨国明石新城図[明石城]
提供:東京大学史料編纂所 | 播磨国明石新城図[明石城]
下屋敷とは
下屋敷は本丸御殿とは別にあった藩主の居館。御殿では公用の行事をおこなっていたのに対し、この別邸はおもに私用に使われたと考えられる。『清流話』によれば築城時の下屋敷は広間・書院・居間・台所料理の間だけがあったと記されており、書院の前に「鞠の懸り」をつくり、小笠原忠政がたびたび出向いてきて蹴鞠を楽しんだとある。
その後、本丸御殿が焼失したため、この下屋敷を拡張して、御殿の機能を付け加えて居屋敷曲輪としたと考えられる。

南にある太鼓門から入って東側(現在の「武蔵の庭園」あたり)には勘定所、用米倉、武具庫などが並んでいました。
また周囲を囲う土塀は屏風折れ塀だったようです(明石城は内側に引っ込んだ屏風折れ)。

居屋敷曲輪

本丸御殿が焼失したあと、小笠原忠政はこれを再建せず、三の丸にあった下屋敷を改築して東西120間、南北78間の御殿を建てて藩主の居館とし、あわせて内堀を掘って居屋敷曲輪をつくっています。
この居屋敷曲輪は現在の野球場のあたりで、整備に伴い重臣屋敷は城外に出されました。

明石城内絵図[明石城]
提供:明石市立文化博物館 | 明石城内絵図[明石城]

居屋敷曲輪は幕末まで藩主の居館として使用され、出入口は南東に表門の「格ノ門」(通称「切手門」)と北に裏門の「堅ノ門」(通称「蓮ノ門」)がありました。
このうち切手門は廃城後に月照寺の山門として移築されています。

建物としては、公的な会合がおこなわれた表御殿と、居間などの裏御殿および台所があり、表御殿は大広間、大廊下、鑓(やり)の間などで構成されていました。

市内の「糀家京作」に居屋敷曲輪のものと伝わる灯籠と手水鉢があります(非公開)。

その後の三の丸

1897年(明治30年)に県立農学校が開校して、その敷地として使われています。この時点ではまだ内堀も残っていましたが、1924年(大正13年)の公園拡張の際に内堀が埋め立てられ、西側は競技場(山里曲輪跡)や野球場がつくられました。東側は乙女池、藤見池などの庭園になり、その後「武蔵の庭園」として整備されました。

なお1898年(明治31年)に大日本帝國参謀本部陸軍部測量局が測量した地図では、居屋敷曲輪の堀などがきれいに残っていることを確認できます。

   

この記事をいろんなキーワードで分類してみましょう。

この記事のURLとタイトルをコピーする
これからあなたが訪問するお城をライフワークとして記録していきませんか?(過去に訪問したお城も記録できます)新規登録(登録は無料です)

明石城の城メモ一覧

あなたのお城巡りをより便利に快適に、そして楽しくするためにぜひ登録してください。

新規登録(登録は無料です)

フォローしませんか

攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)

今日のレビュー

明智光秀の生涯と丹波 福知山

明智光秀の生涯と、丹波および福知山での業績についてまとめた本。小和田先生が監修されている。新説の主張ではなく、各種史料にある情報を整理するといった内容なので最初にこれを読むといいかも。

こうの)

書籍ページを表示する

すべてのレビューを表示する

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する

トップへ
戻る