三の丸は本丸の南側、現在の明石公園の西芝生広場と野球場(明石トーカロ球場)のあたりにあった曲輪です。
築城時は「大曲輪」とも呼ばれ、藩主の別邸である御下屋敷と13軒の重臣屋敷がありました。東西二八〇間(509m)、南北一〇六間(193m)、面積約4.2haの広さでした。
下屋敷とは
下屋敷は本丸御殿とは別にあった藩主の居館。御殿では公用の行事をおこなっていたのに対し、この別邸はおもに私用に使われたと考えられる。『清流話』によれば築城時の下屋敷は広間・書院・居間・台所料理の間だけがあったと記されており、書院の前に「鞠の懸り」をつくり、小笠原忠政がたびたび出向いてきて蹴鞠を楽しんだとある。
その後、本丸御殿が焼失したため、この下屋敷を拡張して、御殿の機能を付け加えて居屋敷曲輪としたと考えられる。
南にある太鼓門から入って東側(現在の「武蔵の庭園」あたり)には勘定所、用米倉、武具庫などが並んでいました。
また周囲を囲う土塀は屏風折れ塀だったようです(明石城は内側に引っ込んだ屏風折れ)。
居屋敷曲輪
本丸御殿が焼失したあと、小笠原忠政はこれを再建せず、三の丸にあった下屋敷を改築して東西120間、南北78間の御殿を建てて藩主の居館とし、あわせて内堀を掘って居屋敷曲輪をつくっています。
この居屋敷曲輪は現在の野球場のあたりで、整備に伴い重臣屋敷は城外に出されました。
居屋敷曲輪は幕末まで藩主の居館として使用され、出入口は南東に表門の「格ノ門」(通称「切手門」)と北に裏門の「堅ノ門」(通称「蓮ノ門」)がありました。
このうち切手門は廃城後に月照寺の山門として移築されています。
建物としては、公的な会合がおこなわれた表御殿と、居間などの裏御殿および台所があり、表御殿は大広間、大廊下、鑓(やり)の間などで構成されていました。
市内の「糀家京作」に居屋敷曲輪のものと伝わる灯籠と手水鉢があります(非公開)。
その後の三の丸
1897年(明治30年)に県立農学校が開校して、その敷地として使われています。この時点ではまだ内堀も残っていましたが、1924年(大正13年)の公園拡張の際に内堀が埋め立てられ、西側は競技場(山里曲輪跡)や野球場がつくられました。東側は乙女池、藤見池などの庭園になり、その後「武蔵の庭園」として整備されました。
なお1898年(明治31年)に大日本帝國参謀本部陸軍部測量局が測量した地図では、居屋敷曲輪の堀などがきれいに残っていることを確認できます。