もともと本丸の位置には811年(弘仁2年)に弘法大師・空海が創建した湖南山楊柳寺がありました。
人丸山の由来ともなった人丸塚の名は、887年(仁和3年)同寺の僧・覚証(かくしょう)が柿本人麻呂の夢を見て、寺の背後の塚を「人麻呂塚(人丸塚)」と名付けたことにはじまります。このときに寺号も月照寺と改めたようです。
1619年(元和5年)、小笠原忠政による明石城築城の際、月照寺と柿本神社は移転させましたが、人丸塚は城の鎮守のためにそのまま残し、現在も本丸跡にあります。
遺跡人丸塚(ひとまるづか)
一、弘仁(こうにん)三年(八一二年)僧(そう)空海(くうかい)がここに楊柳寺(ようりゅうじ)を建てた
一、仁和のころ(八八〇年のころ)住職(じゅうしょく)覚証(かくしょう)が柿本人麻呂公(かきのもとひとまろこう)の夢のおつげで人麿公を祀った
一、明石築城後は城の守り神として祀られてきた兵庫県
柿本人麻呂の歌
「歌聖」と呼ばれた柿本人麻呂が明石について詠んだとされる歌です。『古今和歌集』に収録されています。
「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思ふ(ほのほのと あかしのうらの あさきりに しまかくれゆく ふなをしそおもふ)」
盲杖桜(もうじょうざくら)の伝説
人丸塚にはこんな伝説も残っています。
筑紫国から参拝に来たひとりの盲人が、人丸塚に7日間参籠したのち、和歌を一首詠んだ。
「ほのぼのとまこと明石の神ならば 一目は見せよ人丸の塚」
すると片目が開いて見えるようになったが、すぐにもとに戻ってしまった。そこで盲人はさらに7日間参籠して、下の句を変えて詠んだ。
「ほのぼのとまこと明石の神ならば われにも見せよ人丸の塚」
今度は両目が開いて見えるようになり、前回のようにふさがることもなかったので、彼は不要になった桜の木でできた杖を社の前に突き刺して帰ったところ、やがてその杖から根を生やし花が咲いたという。以来「盲杖桜」と呼ばれ、人々に親しまれた。