明石城の本丸は東西114.5m、南北116.4mのほぼ正方形で、面積は約1万haの広さとなっています。
正方形の曲輪は当時の流行で、石垣の数を計算しやすく急ピッチでつくりやすいために選ばれました。また深井戸がひとつありました。
出入口は東の「番ノ門」、北の「見ノ門」の2か所で、現在もその跡を見ることができます。
築城当初は本丸御殿がありましたが、1631年(寛永8年)に焼失すると、以後は藩主の居館は三の丸に移ったため再建されませんでした。
明治維新後は明石神社が創建され、その後も奏楽堂兼休憩所、茶店、飲食店、人形館などが設けられていましたが、現在は芝生の広場となっています。
1631年(寛永8年)正月に失火により焼失しましたが、このとき小笠原忠政夫妻は龍野藩主となった兄の子・長次と岸和田城主・松平康重の娘との婚礼のために龍野に出かけていたため無事でした。
御殿内部の障壁画は長谷川等仁が描き、そのうち「雪景水禽図」が現存しています。
長谷川派と長谷川等仁
狩野永徳らと並ぶ絵師、長谷川等伯を祖とする画派で、智積院(旧祥雲寺)のほか三宝院、妙蓮寺、禅林寺などの障屏画を制作しました。等伯時代の長谷川派は狩野派よりも色彩感覚に優れ、斬新な意匠を特徴としたものの、父・等伯に勝るほどの腕前を持っていた久蔵が26歳で早世したこともあり、等伯没後は優れた画家が出ませんでした。
長谷川等仁(生没年不詳)は等伯の弟子のひとりで、明石城本丸御殿に障壁画を描いています。本丸御殿は焼失したものの、おそらく24面存在したと思われる春夏秋冬の「花鳥山水図」のうち、「雪景水禽図」が現存しており、かつて愛媛県美術館に寄託されていました(現在は個人蔵)。
現存する障壁画「花鳥山水図」(「雪景水禽図」)
現存するのは、晩冬から春の前兆を描いた二曲屏風六隻・全12面ですが、本来は夏から秋にかけての花鳥山水図が対で存在し、四季花鳥図を構成していたものと推定されます。
本丸御殿焼失時に「雪景水禽図」のみが救出され、幕末まで大坂の蔵屋敷で保管されていましたが、1883年(明治16年)頃にこの12面の襖絵は「六曲一双屏風」に体裁を変え、その後「十二幅対の掛幅」に、最後は小笠原家の家臣であった平井惇麿にわたり、「二曲六隻」の屏風へと仕立て直されたといわれます。
そして1959年(昭和34年)にはこの六隻の屏風が売りに出され、古美術商・薮本宗四郎は一隻を東京在住のフランス人外交官に、二隻を同じく東京在住のアメリカ人コレクターに売却、残りの三隻はワシントンDCのフリア美術館に売却しました。
1996年(平成8年)にサザビーズでオークションにかけられると、これを日本人コレクターが落札して愛媛県美術館に寄託されていましたが、さらに売却され現在は個人所有となっています。