明石藩舞子台場(舞子砲台)跡は幕末の1863年(文久3年)、大坂湾防衛計画の一環として、松平慶憲によって築造された砲台で、国の史跡に指定されています。
瀬戸内海上交通の要衝である明石海峡の防備を目的として、淡路島北端(淡路市)に1861年(文久元年)に築造された徳島藩松帆台場と対をなして、両岸から海峡を通過する黒船を挟撃する目的で建設されましたが、一度も使用されることはありませんでした。
この砲台工事は勝海舟の設計・総指揮によるもので、当時の一般的な台場の上部が土盛り形式であったのに対して、総石垣造になっています。竣工は1865年(慶応元年)とされます。
ただしじっさいには大砲が据え付けられることはなかったようです。
半星形稜堡で建設時は幅約70m、高さ約10m規模でしたが、明治時代末の火災により上部が撤去されたため高さは6mになっています。
2003年(平成15年)から翌年にかけて発掘調査がおこなわれましたが、現在は保存のため埋め戻されており、地表に露出している台場の一部と石垣の一部を確認できるのみです。