明石城は2019年(平成31年)に築城400年を迎えます。徳川秀忠の命により、譜代大名・小笠原忠政(のちの忠真)が築いた明石城の歴史についてまとめます。
築城当時の明石城
明石城は六甲山系の西端に位置する人丸山(人麿山)に築かれた平山城です。
台地のもっとも西に位置する本丸には四隅に三重櫓があり、中央部には本丸御殿がありました。御殿の建物の一部は三階建てになっていたといわれます。ほぼ正方形の本丸の西側には天守台がありますが天守は一度も築かれませんでした。また北東南の三面は多門櫓で結ばれていました。そのほか城全体で6基の二重櫓、10基の平櫓と、合計20基の櫓がありました。
築城当時、本丸南にある三の丸には藩主の別邸である下屋敷と重臣の屋敷が並んでいたとされます。
現在、明石公園の周囲を囲う堀は「中堀」と呼ばれていますが、それは1631年(寛永8年)に本丸御殿が焼失した際に下屋敷を拡張して御殿の機能を備えた居屋敷曲輪をつくった際にあらたに居屋敷曲輪を囲う「内堀」を築いたためです。築城当時は「中堀」が「内堀」でした。
明石城の縄張り構造(曲輪構成)について
なお縄張りについて補足すると築城当初は舌状台地の先端に向かって二の丸と本丸があり、台地の下に三の丸(本三の丸)がある梯郭式でしたが、その後、二の丸を分断して三の丸(東の丸)をつくったため連郭式に変化しています。
多くの書籍では「西から稲荷曲輪、本丸、二の丸、東の丸と4つの曲輪を並べた連郭式」とありますが、これは二の丸の分断後の縄張りを示しています。
明石城はなぜ築城されたのか
1600年(慶長5年)に起きた「関ケ原の戦い」は徳川家康にとっては満足のいく結果ではありませんでした。
その最大の理由は嫡男・秀忠が率いる徳川の主力軍が遅参したことです。長期戦に備えて温存したという説もありますが、せっかく勝利したにもかかわらず戦後処理の論功行賞において福島正則をはじめとする豊臣恩顧の武将に西軍からの没収地632万石の8割強にあたる520万石を与えなければならなかった以上、やはり想定外であったと思われます。つまり「関ケ原の戦い」は徳川政権(江戸幕府)誕生のきっかけではあったものの、同時に豊臣系の大大名を多数誕生させるきっかけにもなってしまいました。
その後、1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」に至るまでの14年間で、家康や秀忠がおこなったことはよく知られているように「天下普請」によって諸大名の財力を削り、膳所城、彦根城、亀山城、篠山城など近畿一円に城郭を築き、豊臣氏の居城である大坂城の包囲網を構築することでした。
この当時、明石は姫路52万石を与えられた池田輝政の領地であり、船上城を姫路城の支城として整備し、輝政の8男・利政や甥の由之が城主となって統治していました。この船上城は天然の堀である明石川の西岸に立地しており、このときの仮想敵国はあくまでも東の大坂であったことがよくわかります。
1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」で豊臣氏が滅亡すると、江戸幕府は「一国一城令」を制定して船上城は破却されました。1617年(元和3年)に池田氏が鳥取に移封され、かわって本多氏が姫路藩主になると、時を同じくして信濃松本から小笠原忠政が明石に入封します。忠政は城としての機能を失っていた船上城にいったん入りましたが、すぐに2代将軍・徳川秀忠から新しい城を築くように命じられました。
「大坂の陣」によって最大の敵であった豊臣氏は滅亡させたものの、依然として豊臣恩顧の大名は残っており、「外様」大名という言葉もあるように彼らは徳川家に忠誠を誓ったわけではありません。そこで今度は西国大名から京・大坂を防衛する必要が生じたのです。
秀忠は姫路城を最前線とし、新規に明石城と尼崎城(戸田氏)を築いて西国街道(山陽道)沿いに三段構えの防衛ラインを構築しました(尼崎城は明石城の4か月前から築城開始)。明石城はこの3つの城の中央に位置するとともに、淡路島の洲本城(蜂須賀氏)とも連携する「扇の要」に位置しています。すなわち明石城は西国街道と明石海峡という水陸両方の交通の要衝に築かれた城であり、徳川政権を盤石にするために将軍自らが築城を命じた、きわめて重要な城だったといえます。ちなみにもうひとつの西国へのルートである山陰道には、すでに天下普請により丹波亀山城が整備されており、こちらにも譜代大名である岡部長盛が入城しています。
小笠原忠政はまず義理の父である姫路藩主・本多忠政とともに城を築く候補地を探します。和坂、塩屋、人丸山(赤松山)の3か所を選んで、地図と模型を幕府へ送り、秀忠が現在地である人丸山を選びました。さらに秀忠は石垣などの土木工事を幕府が引き受けて、銀子一千貫(現在の貨幣換算で約31億円)を与えています。これは米5万石に相当しますので、10万石の小笠原氏にとってみれば5割の支援を得たことになります。
そうして忠政は明石城を築城すると、西国街道を城下町に取り込み、さらに明石川の付替え工事や明石港の整備もおこなっています。以降、明石の町は急速に発展して、城主17代、明治を迎えるまで約250年にわたって繁栄することとなりました。
明石城は姫路城より大きい!?
明石城の内郭(城の主要部の面積)は25haと、姫路城の20haを大きく上回っています。これはほぼ同時期に築城された篠山城の13ha、赤穂城の10haと比べても破格の大きさです。おそらく姫路城が落城した際に、撤退してきた兵を収容しつつ明石城で食い止めるという防衛戦略があったと思われますが、このことから明石城は姫路城の後衛基地ではなく、むしろ姫路城が明石城の前線基地であった可能性も推測できます。
城を築くには(築城の4ステップ)
城を築くには大きく4つのステップがあります。すなわち「地選」「縄張」「普請」「作事」です。
地選とはどこに城を築くかという場所選びのことで、明石城の場合は3か所を選び、そこから人丸山に絞り込んで幕府に提出しています。多くの城では自然地形を利用していました。明石城の場合も最終的に丘陵地(舌状台地)である人丸山を中心に、明石川や自然池である鴻ノ池(剛ノ池)を堀にすることで、防御力を高めつつ工期を短縮できる地形を選定しています。
縄張とは曲輪の配置など、城の防御構造の設計のことです。城は曲輪の配置によって「連郭式」や「輪郭式」などに分類されますが、これは中心部である本丸を守るために敵が攻め寄せてくる方向を踏まえて、考案していきます。明石城築城では小笠原忠政の義理の父・本多忠政が後見役として縄張を指導したとされています。本多忠政は西側からの攻撃に備えて明石川を外堀にしつつ、高台の上に本丸を配し、その東に二の丸、南に広大な三の丸を並べています。さらに本丸が直接敵の攻撃にさらされないよう、本丸西側には西の丸(稲荷曲輪)と捨曲輪(山里曲輪)を設けるなど、本多忠政自慢の縄張だったようです。
普請とは土木工事のことで、空堀や水堀を掘り、そこで出た土を盛って土塁や石垣の土台にします。さらに地ならしをした上で土塁や石垣を築いていきます。明石城の場合は幕府が資金と奉行を与えましたが、じっさいの工事は京、大坂、堺の商人が入札をして請け負った珍しいケースとなっています。なお石材などは領内の船上城や三木城のほか、近隣の高砂城や岩屋城などからも運んで流用したそうです。明石城の石垣は現在も一部残っていますが、とくに隅の部分はきれいに加工された石材で組まれた美しい算木積みとなっています。
作事とは天守や櫓などのいわゆる建築工事のことです。明石城には天守こそ築かれませんでしたが、4基の三重櫓、6基の二重櫓、そして10基の平櫓(一重櫓)が築かれました。また城主の居館である本丸御殿も築かれています。この時代は「一国一城令」で廃城になった城から移築されることも多く、明石城の場合も船上城や伏見城から櫓を移築して再利用しています。天守が築かれなかったのは、おそらく大砲の標的になるため実質的な天守の価値がなかったことと、工期の短縮のためではないかと思われます。
四神相応
地選には四神相応という考え方も用いられています。これは中国の儒書『礼記(らいき)』にある考え方で、都城を築くには「四神」という東西南北を司る神々に囲まれた地形を理想としており、具体的には北(玄武)に山や丘陵、南(朱雀)に池や湿地などの窪地、東(青龍)に河川、西(白虎)に街道がある地形が適しているとされています。京都の平安京などもこの思想に則ってつくられています。江戸時代の軍学書『武教全書講義(ぶきょうぜんしょこうぎ)』でも「繁栄の勝地」としてこの考え方に沿ったものが紹介されています。
明石城の場合は北には伊川をはさんで台地があり、南には瀬戸内海が広がっています。また西国街道が西に伸びておりほぼ理想的な地形といえます。河川(明石川)は西にありますが、東にあれば完璧でしたね。
明治以降
明石城の4つの三重櫓は明治時代まで現存していましたが、廃城令後の1881年(明治14年)に艮櫓が解体され、さらに1901年(明治34年)には現在も残る巽櫓と坤櫓を修理する際の用材として乾櫓が解体されました。
現在の明石城跡は「明石公園」となっていますが、公園の歴史も古く、最初に公園化されたのは1883年(明治16年)のことです。これは先の艮櫓の解体を受けて城址を守ろうとする旧士族の有志によって実現したもので、城址公園としては全国で5番目、県内では初の開園でした。
その後、1898年(明治31年)10月に皇太子殿下(大正天皇)の御用邸候補地となったために公園は廃止となります。しかしけっきょくこの明石離宮の計画は白紙となり、1918年(大正7年)4月15日に兵庫県が御料地のうち、本丸・二の丸・東の丸・桜掘周辺を借り受けて、県立明石公園として開園しました。
この翌年には明石町に市制が施行されて「明石市」が誕生しています。
1924年(大正13年)に竣工した「大正の大拡張工事」では野球場や庭園などが整備されています。このとき山里曲輪は自然林のまま残して、将来は動物園にする計画もあったそうです(現在は陸上競技場)。
この野球場は戦時中には芋畑になっていたそうですが、終戦後に再整備されるとプロ野球の公式戦がおこなわれ、さらには読売ジャイアンツや大洋ホエールズのキャンプ地にもなりました。
1995年(平成7年)1月17日に起きた阪神・淡路大震災では石垣が崩れるなど大きな被害を受けましたが、約5年に及ぶ修復工事で元の姿に戻すだけでなく、発見された資料によって新たに巽櫓と坤櫓を繋ぐ土塀も復元されました。
明石城の歴史・沿革
西暦(和暦) | 出来事 |
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1617年(元和3年) | 7月、小笠原忠政が信州松本より明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1㎞のところにあった船上城(ふなげじょう)に入り、明石藩(現在の明石市東部、神戸市西区、神戸市垂水区、三木市、加東市の一部)が誕生 |
1618年(元和4年) | 2月、2代将軍・徳川秀忠が、西国諸藩に対する備えとして、小笠原忠政に築城を命じる。忠政と岳父の本多忠政は築城の候補地として、塩屋・和坂・人丸山の3か所を選定し、その中から人丸山に絞り、将軍・秀忠の裁決を得た。同時に宮本武蔵によって町割 |
1619年(元和5年) | 正月から明石城の築城開始。幕府は普請費用として銀千貫(現代の約31億円に相当)を与え、3人の奉行を派遣した。正月から8月までは幕府による石垣、土塁、堀の普請(土木工事)がおこなわれ、9月からは明石藩による櫓、御殿、城門、塀などの作事(建築工事)がおこなわれた。本丸御殿は年末に完成し、忠政は船上城から移った |
1620年(元和6年) | 4月、本丸に4つの三重櫓が完成。明石町中の地子免除 |
1621年(元和7年) | 明石浜築港工事 |
1622年(元和8年) | 忠政、戸田織部之助を召して明石城内で陶器を焼かせる(朝霧焼) |
1629年(寛永6年) | この頃、忠政が宮本武蔵に命じて山里曲輪を遊興所(樹木屋敷)に改修 |
1631年(寛永8年) | 1月22日夜10時、三の丸下屋敷台所より出火、本丸御殿などが焼失 |
1632年(寛永9年) | 10月2日、小笠原氏が豊前小倉へ転封となる。その後、半年ほど幕府の直轄地となる |
1633年(寛永10年) | 4月9日、松平康直が、7万石で入封 |
1634年(寛永11年) | 松平光重が、7万石で入封 |
1639年(寛永16年) | 大久保季任が、7万石で入封 |
1645年(正保2年) | 幕府の命により明石城下の絵図を作成(正保城絵図) |
1649年(慶安2年) | 7月26日、松平忠国が丹波篠山から7万石で入封 |
1657年(明暦3年) | 林崎掘割(用水路)許可 |
1659年(万治2年) | 松平信之が藩主となる。7万石のうち5千石を弟・信重に分知 |
1660年(万治3年) | 鳥羽新田開墾 |
1671年(寛文11年) | 松平信之、林崎掘割を完成させる |
1679年(延宝7年) | 本多政利が、6万石で入封 |
1682年(天和2年) | 松平直明が越前大野から6万石で入封。以後、松平家が藩主を継ぐ |
1719年(享保4年) | 松平直常、梁田蛻巌(やなだぜいがん)を藩儒として招いて郷校「景徳館」を創設 |
1840年(天保11年) | 松平斉宜が、2万石加増され入封。10万石の格を許される |
1866年(慶応2年) | 明石藩、第二次長州征伐に出兵 |
1869年(明治2年) | 6月19日、松平直致、版籍奉還。明石藩知事に任じられる |
1873年(明治6年) | 廃城令により明石城が廃城。大蔵省所管となる |
1874年(明治7年) | 二の丸に飾磨県立有文中学校が開校 |
1875年(明治8年) | 明石城の各建物を民間に払い下げ |
1883年(明治16年) | 地元有志からなる「明石公園保存会」が国から借地し、民営明石公園として開設 |
1897年(明治30年) | 三の丸に県立農学校が開校 |
1898年(明治31年) | 10月5日、御料地編入により廃園、宮内省の管轄となる |
1918年(大正7年) | 4月、御料地の利用計画が立ち消えとなったため、兵庫県が宮内省から本丸付近10haを借り受け、県立明石公園として開園 |
1932年(昭和7年) | 3月、ほぼ現在の明石公園の区域に拡張して開園 |
1945年(昭和20年) | 6月26日、B29により公園および付近一帯に250キロ弾約60個が投下され、大きな被害を受ける |
1948年(昭和23年) | 第一野球場の改良工事、陸上競技場の新設工事、補助競技場の新設工事の着工 |
1957年(昭和32年) | 6月、坤櫓、巽櫓が国重要文化財に指定 |
1973年(昭和48年) | 7月、公園内に兵庫県立図書館、明石市立図書館の建設着工 |
1982年(昭和57年) | 両櫓の補修工事(翌年3月に竣工) |
1995年(平成7年) | 1月17日に起きた阪神・淡路大震災の影響で石垣の1/8が崩壊、孕み。櫓は軸部、壁に被害を受ける |
2000年(平成12年) | 櫓の修復工事完了。両櫓の間の土塀も復元された |
2004年(平成16年) | 明石公園が国の史跡に指定 |