「武蔵の庭園」は三の丸跡に復元された大名庭園で、もともと山里曲輪にあった「樹木屋敷」の石や木を移築してつくられました。
築城当初は捨曲輪として西側の防御のためにつくられた山里曲輪でしたが、のちに小笠原忠政の命によって宮本武蔵がここを「樹木屋敷」と呼ばれる庭園に改築したと伝えられています。
このほか明石市内には武蔵が作庭したと伝わる庭園が数か所残っています。
宮本武蔵と養子・伊織について
宮本武蔵の出生地については諸説あり、近年は現在の兵庫県高砂市米田であるとされています。
29歳で「巌流島の決闘」を終えたあと、武蔵は姫路藩主・本多忠政の長男で姫路新田藩主となった本多忠刻に禄700石で召し抱えられ、剣術指南をおこないます。その縁から忠刻の義理の弟にあたる明石藩主・小笠原忠政を手伝い、明石の町割(都市計画)などをおこなったとされます。
武蔵が編み出した二刀流は「円明流(えんめいりゅう)」と呼ばれたが、この「円明」の由来については「四智円明の明石海」から取られたとする説もあります。
1626年(寛永3年)に播磨の地侍である田原久光の次男・伊織を養子にすると、宮本伊織貞次として小笠原忠政に出仕させました。伊織は忠政にともなって小倉へ同道し、のちに家老にまで出世しています。
本多忠刻と姫路新田藩(ひめじしんでんはん)
本多忠刻は徳川家康の孫娘で豊臣秀頼の正室だった千姫と婚姻したことでも知られています。剣術を好み、宮本武蔵に師事すると、武蔵の養子・三木之助を小姓として出仕させ、側近にしました。
1617年(元和3年)、忠刻には姫路藩主(15万石)となった父・忠政とは別に、千姫の化粧料として10万石が与えられました。通常、分家(支藩)創設は本家の領地を分地しますが、このように幕府からあらたに領地を与えられるケースを「新田分知(新田支藩)」といいます。
こうして忠刻は姫路新田藩の藩主となりましたが、1626年(寛永3年)にわずか31歳で早世したため、化粧料10万石は一時幕府に没収され、あらためて忠刻の弟で部屋住みであった忠義に4万石、甥で龍野藩主であった小笠原長次に6万石が分与されました。
武蔵が作庭したとされる庭園
本松寺をはじめ、武蔵が作庭したと伝わる庭園がありますが、伝承の域を出ません。
ただしいずれも枯池式枯山水庭園で、枯滝が大小2か所あり、池の形がひょうたん形をしているなどの共通点があります。
明石市周辺に残る伝武蔵作庭の庭園
本松寺 | 明石市上ノ丸1-17-18 |
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善楽寺(円珠院) | 明石市大観町11-8 |
雲晴寺 | 明石市人丸町5-23 |
福聚院(如意寺) | 神戸市西区櫨谷町谷口259-3 |