1721年(享保6年)に書かれた『明石記』によれば「兼山 明石十景」とあり、兼山が選んだことはわかっていますが、誰の指示によるものかは不明です。「6代藩主・松平信之が儒学者・片山兼山に命じて」と紹介されることも多いのですが、1730年(享保15年)生まれの片山兼山に対し、松平信之は1679年(延宝7年)に大和郡山に転封となっており、時代があわないため「兼山」とは別の人物であろうとのことでした。
なおこのとき選ばれた「十景」は以下のとおりです。
- 喜春城(きしゅんじょう)
- 「天子南面貴春」の「貴」を「喜」にかえて春の明石城(櫓)の美しさを讃えた。
- 芳草塘(ほうそうとう)
- 剛ノ池に面した堤には、春になると良い匂いの草花が咲き、昼寝をすると楽しい夢想にふけることができる、との意。
- 緑竹塢(りょくちくお)
- 剛ノ池の北側に生えた竹林は入道雲のように見える。風に乗ってさわやかな香りがただよい、心が和む。
- 迎涼池(げいりょういけ)
- 夏の剛ノ池の涼風にゆれる浮草はとくに雨の降ったあとは美しい。剛ノ池の名は迎涼池が転じたとも。
- 載月車(さいげつしゃ)
- 夏の夜、剛ノ池に浮かべた舟に映る月影。舟中で杯をかたむけると心の底まで洗い清められる、の意。
- 鶴舞峯(かくぶほう)
- 本丸のある丘に鶴がいたことから名づけられた。城の平和な前途を祝している。「鶴峯」とも。
- 観魚橋(かんぎょきょう)
- 城内の池では誰も釣りをしないので魚は人への警戒をしない。城内にものどかな場所はある、との意。
- 進瓜園(しんかえん)
- 山里郭には農民の苦労をしのぶために稲や麻が植えられた。明石は温暖な土地柄で作物がよく育つことをみなが喜んだ。
- 雲竜堂(うんりゅうどう)
- 庭内の数寄屋。雲を呼び天に昇る龍の絵が描かれていた。君臣不可離の意。
- 含雪軒(がんせつけん)
- 庭内の数寄屋。冬、北風の吹く日でも寒さを忘れるほど眺めのよい小屋があった。
「喜春城」の由来
明石城の別名である「喜春城」はこのときつけられました。
出典は中国の故事『塩鉄論(えんてつろん)』で「君主は仁を以て政を行わねばならず、あたかも春の草木を育てるがごとく、善を賞するを貴ぶ」から名付けられており、「貴」を「喜」に変えている(めでたい意味の漢字に置き換える)のは「好字」といってよくあることです。
また兼山は中国の古詩により、明石城を「岷峨山(みんがさん)」になぞらえて、その麓にある明石港を「錦江(きんこう)」と名づけました。