明石城の石垣は全体で約2万平米もあり、史跡区域全体(27.4ha)の約1割を占めています。
その高さは約20m(帯曲輪まで5〜6m、そこからさらに14〜15m)、本丸西端の坤櫓から二の丸、東の丸へとつづく南面石垣の幅は380mもあります。
明石城の築城時、石垣普請は幕府の直轄工事としておこなわれました。
徳川秀忠は旗本の都筑弥左衛門為政、村上三右衛門吉正、建部与十郎政長らを普請奉行として派遣し、京・大坂・堺などから商人たちがやってきて、石垣・土塁・堀の工事を入札で工事を請け負いました。
(こうした請負工事による城普請は珍しいです)
1619年(元和5年)正月からはじまった中核部の土塁および石垣の工事は8月には竣工し、3人の奉行は江戸に返っています。その後は明石藩の私工事として継続されました。
こうして幕府が当初築いた部分には花崗岩が使われていますが、「一国一城令」で廃城となった三木城、船上城、高砂城、神吉城の石を再利用しています。一部は伏見城の石材を使ったとも。
一方、明石藩がのちに修復した部分は凝灰岩(竜山石)が使われていることから、現在もおおよそどの部分が修復されたかが確認できます。
花崗岩の産地は神戸市石ヶ谷採石場、淡路、六甲山、家島諸島、小豆島など、竜山石は高砂市竜山、加西市高室で採石されました。
算木積みの部分などは角をノミで尖らせる江戸切が多用されており、江戸時代の築城技術を間近に見ることができます。
阪神・淡路大震災による石垣の被害
1995年(平成7年)1月17日に発生した「阪神・淡路大震災」では942平米の石垣が崩壊しました。また孕みなど危険な状況になった石垣もあわせると、全体の19%にあたる3743平米が被害を受けました。
しかし姫路城や大阪城などの石垣修復経験のある熟練した石築工の手により、1995年(平成7年)8月の着工からわずか1年8か月で修復工事が完了しています。
なお櫓下の石垣を修復する際は国内の城郭建築では初となる曳屋工法が用いられ、のちの弘前城などの修復工事に大きく役立つことになりました。
石垣の刻印
明石城の石垣にも刻印が多く見られます。
その数と種類は調査によれば、1445か所、86種類とのことで、二の丸を中心に、ほかには三の丸の北側などに多く見られます。
ただし天下普請で築かれた多くの城郭と異なり、いわゆる家紋の刻印が見られないのが特徴です。
これは大名が普請にかかわったのではなく、商人の請負工事であったために、施工者同士が区別するために使われたと考えられています。