山里曲輪は本丸の西側、現在の陸上競技場(きしろスタジアム)周辺にあった曲輪で築城時は「捨曲輪(すてぐるわ)」と呼ばれていました。
捨曲輪とは、守城のとき、わざと放棄して敵を入れ、攻撃、射撃するための曲輪で、捨てる前提の曲輪のことをいいます。
曲輪を囲う土塀の長さは二九一間で、北西隅に高さ三間の「本ノ櫓」がありました。
また門は南に「八ノ門」、東に「田ノ門」があり、そこから鴻ノ池(剛ノ池)の南東岸を通り北の丸へ通じる「水ノ門」がありました。
明石城の仮想敵は西国大名だったため、とくに西側の防御を固める必要があり、本丸の西には稲荷曲輪(西の丸)、山里曲輪とふたつの曲輪を配し、さらに水堀を築いていました。
しかし当時の仮想敵の筆頭でもあった福島正則が1619年(元和5年)にて改易(減封)となったため、その脅威が下がったことからこの曲輪は「樹木屋敷」と呼ばれる大名庭園(城主の遊興所)に改修されました。
宮本武蔵が作庭した樹木屋敷
「樹木屋敷」とは、大坂城や伏見城で秀吉がつくらせた、人工的に造成した山林のことで、市街地に住みながら山の中に住んでいるような住み心地を体現する、いわゆる市中山居のきわめて贅沢な数寄をこらした庭園です。散策・休憩・客のもてなしのために用いられました。
小笠原忠政もこうした庭園を宮本武蔵に命じて、ほぼ一年の工事で作庭させました。
明石三ノ丸之西頬きしに付、北之方へ長く細き捨曲輪有リ。家居もなく芝原なりし処ニ新き御樹木屋敷を御取建有て、御遊興所と被成御茶屋出来候而、御座敷御風呂屋鞠の懸り旁結構千万也。御茶屋築山泉水瀧なと植木迄の物数寄ハ、宮本武蔵ニ被仰付、一年懸り御普請成就ニ而候。此御普請の時御家中より人足を出シ夥敷事ニ候。築山の石ハ阿波讃岐の小豆島迄も大船を遣し御取寄せ被成候。植木ハ明石三木両郡の在所寺院共ニ見廻り候而宜き木を引寄せ、又大坂堺ニ而植木を買調へ船ニ而廻し候。其比ハ右近様江戸江御越之儀ハ無之、御苦労事無御座候而、何事茂御心任せに候。今ニ至り奉考候得ハ、其分か御徳ニ成り候儀と奉存候清流話(小笠原忠真一代覚書)
この樹木屋敷には、御茶屋(おちゃや=休憩所)、築山(つきやま)、泉水、滝などがある池泉式の庭園のほか、蹴鞠をする場所「鞠の懸り(まりのかかり)」もあったようです。近隣各地から名石・名木が集められ、石は阿波・讃岐・小豆島から運ばれ、明石郡・三木郡内の寺社から集めた珍木と大坂・堺で買い入れた植木が配置されたといわれます。
山里ノ宮
その後、江戸中期に入り、松平氏が藩主の時代には歴代藩主の霊を祀る「山里ノ宮」が設けられています。
松平氏の菩提寺は長寿院ですが、藩主が死去するとまず長寿院に葬り、50年仏式で祀ったあと神式にして廟を建てて神号を贈ったとされます。藩主は毎月朔日(1日)と12月28日および五節句に参拝する定めとなっており、長寿院に墓参する際もまずこの山里の宮に参拝しています。
この山里ノ宮は1886年(明治19年)3月に本丸跡に移され、明石神社として造営されました。その後、城内全域が公園となった際に現在地に移転しています。
その後の山里曲輪
明治から大正まではこの山里曲輪のエリア(約1万坪)はそのまま残っていましたが、その後は陸上競技場が建設され、遺構は完全に失われています。