明石城
76 明石城

[兵庫県][播磨] 兵庫県明石市明石公園1-27


  • 平均評価:★★★☆☆ 3.23(237位)
  • 見学時間:1時間6分(188位)
  • 攻城人数:1048(31位)

明石城の歴代城主一覧(明石藩・歴代藩主)

明石藩は「大坂の陣」後の1617年(元和3年)に松本藩より国替えを命じられた小笠原忠政によって立藩されました。

小笠原忠政(忠真)画像[明石城]
提供:北九州市立自然史・歴史博物館 | 小笠原忠政(忠真)画像[明石城]

信濃松本藩より10万石で入封した忠政は2代将軍・徳川秀忠の命により、船上城に代わる東播磨の拠点として明石城を築城しました。この築城には忠政の岳父(義理の父)にあたる姫路城主・本多忠政がサポートしています。

1632年(寛永9年)に小笠原氏が豊前小倉藩に移封となると、半年ほど幕府の直轄地となりますが、小笠原氏の後任として松本藩主をつとめていた戸田松平氏の松平康直が入封します。
戸田松平氏は2代つづきましたが、1639年(寛永16年)に光重が美濃加納藩へ移封となると、入れ替わるように同地より大久保忠職が7万石で入封します。

大久保氏は一代かぎりで1649年(慶安4年)に肥前唐津藩へ移封となったため、代わって丹波篠山藩から藤井松平氏の松平忠国が7万石で入封します。忠国の子の信之は名君として知られ、新田開発を進めて明石を発展させたのち、大和郡山藩へ移封後には老中となっています。

小笠原忠政にはじまる歴代の明石城主はほぼ全員が加増移封の栄転となっているのですが、唯一の例外が藤井松平氏のあとに同地より交代で入った本多政利です。政利は過酷な支配をしたことにより左遷されました。

本多氏のあとに越前大野藩より松平直明が6万石にて入封すると、以後は廃藩置県まで越前松平氏の支配がつづきました。ただし慢性的な財政難がつづき、藩の舵取りは大変だったようです。
15代藩主である斉宜は11代将軍・家斉の二十五男で、2万石の加増を受けて8万石(10万石格)となりましたが、財政は悪化の一途をたどりました。幕末には御家門の立場上、佐幕派となり、「鳥羽・伏見の戦い」でも幕府方として参戦しました。しかし官軍が城に迫ると、本家筋にあたる松平春嶽の取り成しで明治政府方に帰順しました。
越前松平氏は1884年(明治17年)、華族令により子爵となりました。

明石城の歴代城主

歴代  西暦(和暦) 城主 メモ
11617年(元和3年)小笠原忠政(忠真)初代明石藩主。小笠原秀政の子。1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」で父と長兄・忠脩が戦死したため、家督を継ぐことになる。信濃松本8万石を領し、忠脩の未亡人である五姫(亀姫)を正室とした。1617年(元和3年)7月、明石に国替えとなり、明石藩が立藩した。徳川秀忠の命により、明石城を築城。さらに城下町や明石港を整備した。
21633年(寛永10年)松平康直松平康長の三男。1632年(寛永9年)12月に父の死去に伴い家督を相続すると、翌年明石に移封された。しかしその翌年、江戸から上洛途中の東海道鈴鹿関で18歳の若さで急逝した。
31634年(寛永11年)松平光重松平忠光の長男。叔父の康直が跡継ぎのないまま死去したため本来であれば断絶となるところ、忠光や康直の父にあたる先代康長が家康・秀忠・家光の3代に厚い信任を受けていたこともあり、家督を継ぐことを許された。領内では鳥羽新田の開発を進めた。1639年(寛永16年)に美濃加納城へ移り、さらに1656年(明暦2年)には大坂城代となっている。
41639年(寛永16年)大久保季任(忠職)大久保忠隣の嫡孫にあたる。父・忠常の早世により7歳で家督を継ぎ、1614年(慶長19年)に忠隣が改易されると、大久保氏の存続こそ許されたものの騎西城での蟄居処分となっていた。1625年(寛永2年)にようやく罪を赦され、美濃加納藩へ加増移封となり、1639年(寛永16年)に明石藩へ加増移封となった。さらに1649年(慶安2年)には肥前唐津藩へ加増移封された。
51649年(慶安2年)松平忠国松平信吉の長男。父・信吉の跡を継いで丹波篠山5万石の藩主となると、1649年(慶安2年)に明石へ加増移封された。新田開発や掘割の開削などにあたった。
61659年(万治2年)松平信之松平忠国の次男。兄・信久が夭折したため嫡子となり、1659年(万治2年)に父の死去により藩主となる。信之は好学の名君で、父と同じく新田開発・掘割開削に注力したり、柿本人麻呂を祀った人丸神社(柿本神社)を整備するなど明石の発展に貢献した。1679年(延宝7年)に大和郡山に移封となると、1685年(貞享2年)には老中に出世している。
71679年(延宝7年)本多政利本多政勝の次男。本多忠勝のひ孫にあたる。本多宗家の跡目争いである「九・六騒動」を引き起こす。1679年(延宝7年)に播磨明石へ移封となると、幕府から苛政をとがめられて陸奥岩瀬1万石に減封となった。
81682年(天和2年)松平直明結城秀康のひ孫にあたる。1682年(天和2年)、越前大野から加増移封となると以後は明治まで越前松平氏が代々明石藩主をつとめた。直明は信之のあとを受けて新田開発を進めたが、商品経済の発展にともない藩の財政は窮乏した。1701年(元禄14年)に家督を長男の直常に譲って隠居すると、1721年(享保6年)、明石城二の丸にて病没した。享年66。
91701年(元禄14年)松平直常松平直明の長男。父・直明の隠居に伴い家督を相続した。幕府から大和川改修工事を命ぜられると藩財政はますます悪化し、さらに1711年(正徳元年)には朝鮮通信使接待役に任ぜられたため一層困窮することとなった。直常は学問好きで新井白石らと親交があり、儒学者・梁田蛻巌(やなだぜいがん)を藩儒として招いて郷校「景徳館」を創設した。1743年(寛保3年)に隠居すると、1744年(延享元年)に明石城二の丸にて病没した。享年66。
101743年(寛保3年)松平直純松平直常の長男。1743年(寛保3年)、直常の隠居に伴い家督を相続する。慢性的に藩の財政難はつづき、家臣の俸禄を減給したり、藩札を発行して健全化を試みたがうまくいかなかった。1764年(明和元年)に病没。享年38。
111764年(明和元年)松平直泰なおひろ松平直純の長男。1764年(明和元年)、直純が病没したため家督を継ぐ。1784年(天明4年)に隠居。1804年(享和3年)卒中のため、明石城二の丸にて病没。享年56。
121784年(天明4年)松平直之松平直泰の長男。1784年(天明4年)、父の隠居により家督を継ぐ。藩主となって一年半後の1786年(天明6年)、江戸藩邸において20歳の若さで死去。
131786年(天明6年)松平直周なおかた松平直泰の三男。兄・直之の死去に伴い家督を継ぐ。1796年(寛政8年)、幕府から濃尾三川の改修工事を命じられると藩の財政はますます窮乏し、領内の豪商・豪農から借財をおこない、そのかわりに苗字帯刀を許可した。1816年(文化13年)に隠居して、家督を次男の斉韶に譲る。
141816年(文化13年)松平斉韶なりつぐ松平直周の次男。初名は「直韶」だったが、将軍・徳川家斉から偏諱を受けて「斉韶」に改名した。元服前の1816年(文化13年)、父の隠居に伴い13歳で家督を相続する。1840年(天保11年)に隠居し、嫡男(慶憲)がいるにもかかわらず、家督を将軍家の養子・斉宜に譲った。
151840年(天保11年)松平斉宜なりこと11代将軍・徳川家斉の二十五男。将軍の子が藩主になったことで明石藩は2万石が加増されて8万石になったが、斉宜はさらに10万石への加増を老中らに求め、結果として「10万石格」として扱われた。ただし将軍家からの養子を迎える準備と10万石格という格式を維持するために莫大な費用を要し、藩財政窮乏に拍車をかけた。1844年(天保15年)、わずか20歳の若さで病死。
161844年(天保15年)松平慶憲よしのり松平斉韶の長男。斉宜の死去により、本来の世嗣であった直憲が家督を相続すると、徳川家慶の偏諱を授かり慶憲と改名した。外国船の来航が頻繁になったため、1853年(嘉永6年)に明石海岸に12箇所の砲台を築く。第二次長州征討、鳥羽・伏見の戦いや越後出兵に参陣した。1869年(明治2年)に隠居すると、1897年(明治30年)に死去。享年71。
171869年(明治2年)松平直致なおむね松平慶憲の長男。1869年(明治2年)、慶憲の隠居に伴い家督を相続する。版籍奉還により知藩事となるが、その2年後の廃藩置県により明石県が置かれ、知藩事職を免官となった。
   
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