【時期】1677(延宝5年)~1683年(天和3年)
【舞台】郡上藩
【藩主】遠藤常春
【主要人物】遠藤杢之助、遠藤新左衛門
増税政策の実施が農民・武士ともに反発を生む
江戸時代史を眺めればお家騒動はいくつも見つかるが、基本的には城内での武士たちによるいざこざ、権力闘争がその中心にあることがほとんどだ。
そんな中でこの延宝の郡上騒動は少し様子が違う。家臣の対立が、農民たちをも巻き込んだ大きな騒動に発展したのである。
美濃郡上藩の四代目藩主・遠藤常春は10歳で家督を継いだ。もちろんまだ幼年であるから、親戚で大垣藩の藩主・戸田氏西や分家である遠藤常昭ら4名の後見人がつけられた。政治は江戸詰め家老の遠藤十兵衛・池田庄兵衛と国家老の遠藤杢之助・遠藤新左衛門が主だって動かしていった。
郡上藩は2万7千石の小藩にすぎず、その財政は危機に瀕していた。
藩内では年貢を増徴するか大幅な倹約令を発布するかで意見が対立し、家中が二派に分かれた結果、年貢の増徴が決まる。これにより、今まで1石につき3升だった口米(年貢とは別に税として徴収された米)が4升の徴収となった。
当時の郡上藩での年貢は石高の3割と言われている。これに4升の日米を加え、さらに上納の際には一般の升より3割大きなものが使われるため、実質でいうと収穫の5割近くを年貢で持って行かれてしまう厳しいものだった。
もちろん、こんなことをすれば農民たちの不満が爆発するに決まっている。彼らは増税の撤回を求め、代表者たちが藩庁へ赴いたが、役人は取り合わなかった。しかし農民たちはあきらめず、今度は江戸にいた常春の所まで行って同じように訴える。それでも藩側の考えを変えることはできず、それを不服に思った農民たちは再び、声を上げようとした。
この農民たちの反発に危機感を覚えたのが、国家老のひとり、遠藤杢之助であった。
彼はすぐに江戸に出向き「農民たちの強訴(農民が藩主に年貢を減らすことを求めること)になっては大変なことになります。藩士の禄を減らすことで今回の財政危機を乗り越えましよう」と提案した。常春や後見人たちはこれを採用し、農民たちは危機を脱したのだった。
しかし、禄が下がるということは家臣を解雇しなければならない事態となり、増徴派は杢之助に反発。100人以上の仲間を募り連判で杢之助の讒言をしたためた訴状を提出する。
さらに騒動の収拾を図るため、戸田氏西の父・氏信が杢之助に切腹を言い渡そうと提案したが、この試みは杢之助に知られることとなったため、実現には至らなかった。
増徴派家老らの処分で対立から融和ヘ
増徴派は最後の手段として、杢之助を武力で排除しようとした。
そして1679年(延宝7年)、杢之助の暗殺が謀られたが、これに対して農民たちが彼を守るべく押し寄せてきたために大事件に発展しかける。集まった農民の数は600人にも及んだと言われている。
杢之助は「騒動になれば藩主に迷惑がかかる」として農民たちに解散を命じたが、彼らは聞き入れなかった。農民たちにとって、自分たちを救ってくれた杢之助を守ることは、そのまま保身にもなるはずだったからだ。
このような状態は数日間続いた。後見人の立場から大垣藩から使いの者が送られてきて解散を命じたものの、農民たちは「家中で仲たがいがある限りは解散に応じない」と頑な態度をとった。しかし最終的には「このままだと一揆として扱われ、藩主の常春に迷惑がかかる」という説得に応じる形で解散している。
この騒動を受け、反増徴派の杢之助と増徴派の遠藤新左衛門がそれぞれ責任をとって隠居したが、それですべて解決とはならなかった。
その後も家中の対立は1年ほど続いたのである。結局、農民たちがまたも立ち上がり、江戸藩邸にやって来て訴えを続けた。
そうして1682年(天和2年)、ついに家臣一同から「家中和合」の誓詞が提出されて融和が図られ、両派の争いは落ち着きを見せた。
翌1683年(天和3年)には杢之助、新左衛門ら61人に御暇や追放、切腹などが言い渡され、両派の関係者がそろって処罰されることで騒動は終結したのである。