【時期】1679年(延宝7年)~1681年(天和元年)
【舞台】高田藩
【藩主】松平光長
【主要人物】小栗美作、荻田主馬、永見大蔵
当初は穏便な手法が模索されるが、一転して厳格な処分に
この事件が「越後騒動」と呼ばれるのは、舞台となる越後高田藩の当時の藩主、松平光長が官職から「越後中将」と呼ばれていたことに起因する。
ちなみにこの光長は、徳川家康の次男である結城秀康、そして三男である徳川秀忠の孫にあたり、御三家に次ぐ名誉ある血筋を引く人物であった。それだけに、この事件は注目されることとなったのである。
事件の発端は光長の嫡子が亡くなり、後継者を巡る争いが起きたことだった。
家老の小栗美作は光長の異母妹を妻にしていたことから、わが子の小栗掃部を藩主にしようと企んだという(反対派による流言とも)。これに対し、荻田主馬は光長の異母弟である永見大蔵を立てて、これに対抗した。
この争いの背景には、もともと美作の政治が傲慢なもので、多くの敵を作っていたらしきこともあったようだ。
結局、重臣たちの話し合いで養嗣子には大蔵の兄である永見長頼の遺子・万徳丸が選ばれる。
これで問題は解決したかに見えたが、この後も両者の対立は収まる気配を見せず、光長が地元を留守にしていた間に激化、ついには武力衝突にまで発展しかける。
このことを知った幕府は事をなるべく穏便に片付けようと、中立派の重臣に藩のかじ取りを任せ、美作を隠居させた。
だが、主馬らには美作らとの不和を解消するつもりはなく、騒動は鎮静化しそうにない。そのため、幕府は大蔵を含む主馬派の人間らを大名預けとした。
ここまで幕府が穏便な手法を模索したのは、とにもかくにも徳川の血筋に連なる名門に傷をつけたくない一心からであったろうが、その気持ちは高田藩の重鎮たちには通じなかったようだ。
ついに主馬派の家臣たちが相次いで脱藩。飢饉と増税で生活が苦しくなっていた農民が幕府の使いに苦境を訴えたことで、騒動は再び露呈する。
これにより1680年(延宝8年)、再び関係者を呼び出して審理が行われた。
この際、時の将軍綱吉が判決を下し、美作親子は切腹となる。さらに両派閥の構成員に処刑や遠島などの厳しい処罰を命じるとともに、藩主・光長は改易処分としてしまった。
この騒動は藩内部の醜い権力争いが招いた自業自得という意味合いが強いのだが、異説もある。
一度は藩(と徳川家)の名前に傷をつけないようにしていたのにそれが急転直下厳しい判決となったのは、将軍綱吉による仕返しだというのだ。じつは、先代の将軍・家綱が嗣子なく危篤となった時に、光長が綱吉ではなく他の人物を将軍に推した。この仕返しとして改易に追い込んだ、というのである。