攻城団ブログ

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それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

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攻城団テレビに先日収録した動画を公開しました。
今回は「それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない」というタイトルですべてを言い切ってしまってる感がありますが、ようは桶狭間の戦いで今川義元は討死したものの今川家は滅亡していないので有名な合戦での大敗は大名家の滅亡と直接は関係していないんじゃないのかという仮説の検証をおこないました。

もちろん例外はあって、蘆名家のように摺上原の戦いで伊達家に敗れるとそのまま滅亡してしまったケースもあるのですが、姉川の戦い(1570年)で敗れた浅井家・朝倉家の滅亡は3年後、長篠の戦い(1575年)で敗れた武田家の滅亡は7年後、上述の今川家にいたっては桶狭間の戦い(1560年)からなんと9年後に滅亡と、いずれもしぶとく戦い続けています。
そのほか今回は大内家や龍造寺家などの事例も榎本先生に調べてきていただきました。

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北条家(小田原征伐)や豊臣家(大坂の陣)のように大軍で居城を攻められての籠城戦の場合はそのまま滅亡になっているものの、野戦での敗戦――それも本拠地から遠く離れた遠征先での敗戦なら即滅亡にはならない確認はできたかなと。
同時に即滅亡していない時点でその当主はけっして暗愚ではなく、むしろ歴代を振り返ってもトップクラスに有能だった可能性があることも正しく認識すべきだと思いました。
大内義隆、朝倉義景、今川氏真、武田勝頼など家を滅亡させてしまった当主はどうしても無能で暗愚なイメージで語られがちですが、冷静に見ないといけませんね。
(浅井長政は彼らに比べると暗愚な描かれ方をしていないのはやはりお江の父親だからでしょうか)

まとめとしては、有名な合戦で負けても滅亡していないのは

  • そもそもたいした規模の合戦ではない(殲滅戦にはならないし、盛られてる)
  • 居城や領国が安泰なら挽回可能
  • 有力家臣や国衆が離反し、本拠に攻め込まれるから滅亡する

というあたりでしょうか。
動画の中でも話していますが、有能・無能よりも「運」の要素のほうが滅亡に与える影響は大きくて、龍造寺家が滅亡しなかったのは秀吉が九州征伐を開始したからだし、織田信長が包囲網を突破できたのも武田信玄や上杉謙信が病死したからですよね。徳川家康が天下人になれたのも運によるところが大きいと思います。
「成功する上で重要なのは才能よりも運である」というような発表が今年のイグノーベル賞でされていましたが、歴史がそれを証明していると思います。

あと個人的には榎本先生がおっしゃった姉川の戦いは家康の活躍をアピールするために盛られてる?(じっさいはそこまで大規模合戦ではない?)という指摘が印象的でした。
このあたりもいわゆる徳川史観に引っ張られてしまっている部分もあると思うので、注意が必要ですね。

今回は収録後のアフタートークを入れてみましたが、大北条構想とかなかなかおもしろい話ができたと思います。
榎本先生との対談番組はいろいろ試行錯誤しながらつくってるんですが、最近は2か月くらいかけて準備をしているにもかかわらず、当日のアドリブでいろんな話に発展することが多いんですよね。
あくまでも IF(もしも) の話ではありますが、おもしろいと思っていただければうれしいです。

今後もこんなふうに素朴な疑問をぶつけながら番組を作っていきますので、引き続き楽しんでくださいね。

最後に榎本先生からいただいたメモを共有します。

●戦国大名はどういう時に滅亡するのか。

・戦国時代はお城や武将・大名、家と並んで、有名な合戦で印象に残っている人が多い。そのため、有名な合戦で負けた方がそのまま滅亡する、というイメージを持っている人もそれなりにいるのではないか。
・実際そういう例もある。小田原北条氏が滅んだ小田原城の戦い(秀吉による小田原征伐)や豊臣氏が滅んだ大坂冬の陣・夏の陣などが典型だ。
→そのようなケースでは、戦いの舞台が敗北した方の本拠地になっている。そしてまた、逃げる場所(単に大名が生き延びるだけでなく、勢力を復活・再興させられるような場所)がなかったり、敵による包囲が現状で逃げようがなかったりという事情も大きい。
→小田原城にせよ、大坂城にせよ、大名たちが包囲を切り抜けて再興を目指せたとはちょっと思えない。それゆえに滅亡するしかなかったわけだ。
・他のケースではどうか。意外に、有名な戦いで負けてそのまま滅亡という例は多くない。
→武田・上杉の川中島の戦いは、結局のところ両勢力にとって本国ではない信濃で行われているものであり、どちらかの滅亡につながるものではなかった。武田勝頼が織田信長・徳川家康に敗れた長篠の戦いは非常に派手なものであり、実際「武田の滅亡の遠因は長篠では?」と思えるところもあるけれど、実は武田は長篠の後も結構粘っているし、何なら領地が一番大きくなったのは長篠の後だったりする。
・そこで今回は「有名な戦いから滅ぶまで数年あるケースの、その過程」を中心に紹介していく。

●即滅亡ケース(蘆名家)

・サンプルとして即滅亡ケースをもう一つ紹介。本拠地を攻め落とされた以外でも、決戦ですぐに滅亡する家がある。
・東北の戦国大名に、会津の蘆名家がある。ルーツは三浦氏で、鎌倉時代に会津との縁ができて、南北朝の動乱期に特にこの地域での勢力を伸ばしたと考えられている。特に戦国時代後期、蘆名盛氏(あしなもりうじ)の時には最盛期を迎え、室町幕府の『諸役人付』(永禄六年)という史料にある「大名在国衆」五十三人の中で、北条・今川・上杉・武田・織田・島津・毛利ら当時のそうそうたるビッグネームの中に、伊達晴宗と並んで盛氏と思しき名前があるほど。
・その盛氏の引退後は早めに亡くなった大名が続き、またライバルとして対立を続けてきた伊達氏が伊達政宗のもと勢力を拡大したので、蘆名氏は圧迫される。
・蘆名義広(あしなよしひろ)の頃の天正17年、蘆名一族の猪苗代盛国(いなわしろもりくに)が伊達側に裏切り、伊達軍が蘆名領内へ侵入。摺上原(すりあげはら)で両軍が決戦し、戦いは伊達側の勝利に終わった。戦いに敗れた義広は本拠地である黒川城へ戻ったが、城に篭って徹底抗戦の構えを取ることはなく、同盟者である佐竹氏のところへ逃げることになった。理由は、城内の意見が「伊達氏への降伏」へ傾き、義広は城を明け渡す他なかったからだ。この時をもって実質的に戦国大名・蘆名氏は滅亡する。
・どうして蘆名の家臣たちは義広のもとで一致団結しなかったのか。その原因としては「義広がよそ者だったから」ではないか。実は決戦から三年前の1586年(天正14)、時の当主の蘆名亀王丸が亡くなると、蘆名内部で後継者をどこから養子で貰ってくるかで意見対立が起きていた。その候補が政宗の弟と、佐竹義重の子である義広だったのだ。これはイコール「伊達と佐竹のどちらに従うか」という話で、この時は家臣団の意見が佐竹に偏り、義広が養子として蘆名に入った。
・蘆名としては敵として戦ってきた伊達と戦い続けるためには佐竹から殿を受け入れざるを得なかったのだろうが、いざ受け入れてみると一緒に付家老がやってきて政治をしようとする。あるいは、義広がやってきたときにランクを下げられた家臣もいる。これでは、元々の家臣が納得するはずもなく、家中に相当の火種があったようだ。
・この背景からわかるのは、蘆名内部に伊達寄りの意見が少なからずあったことだ。その上で、黒川城から遠くない摺上原で敗れてしまったとあっては、家臣団内部の意見をよそ者の義広に押さえられるはずもなく、城を追放された、というわけだ。残ったものたちは伊達によって所領を安堵され、降伏した。
→「追い詰められた家が存続のために周辺有力大名から養子を招く」ケースの代表例としては、(竹原)小早川家のケースがある。毛利元就の子の隆景が小早川へ養子に入ったのは、大内勢による出雲攻めが失敗した直後のこと。この時期、竹原小早川は同族で尼子側から寝返ったばかりの沼田小早川と共に当主を失った状態で、一族揃って安定するために当主と後ろ盾を必要としていた。そこで同じ大内側である毛利から養子を連れてきた。結果、毛利の勢力に取り込まれることにはなったが、所領は拡大した。蘆名も、もし佐竹が伊達との争いに勝ったなら同じようなコースを進んだのでは? その意味では「当主を近隣の有力者から招くと言うのは、結局のところ独立を失う第一歩」なのかも。
→滅んでいない例も見つけられた。東北の岩城氏は16代党首岩城親隆(いわきちかたか。伊達晴宗の子)、18代当主岩城貞隆(いわきさだたか。佐竹義重の子。親隆の子の17代常隆(つねたか)には政隆(まさたか)という実子がいたが、政治的事情から貞隆を迎え入れた)と伊達・佐竹から当主をもらい、両勢力に翻弄されながら独立を保って(関ヶ原の戦いに参加しなかったせいで一度改易されたりもしたが、貞隆の必死の運動により大名として復活し、)江戸時代へ入っている。あまり追い詰められて養子をもらったという感じではないために生き残れたのかもしれない。
→政隆は伊達一門になって「岩谷堂伊達家」としてその血筋が続いたが、江戸中期になって隆恭(たかよし)が岩城家の養子に入り、ある意味での返り咲きを果たしている。

●有名ではあるがそこまで大きな意味を持ってはいない戦いのケース
・浅井(あざい)氏と朝倉氏は織田信長と戦い、信長包囲網の一角を形成したことで知られている。浅井氏は近江の国衆で、主家にあたる京極氏の内紛を利用して近江北半分を支配するに至った大名。朝倉氏は斯波氏に仕えていた越前守護代の家系で、戦国時代に入って越前を支配した大名。信長と戦ったのは浅井長政と朝倉義景。
・信長は上洛するに先立って浅井と婚姻関係を結んだが、上洛後に朝倉を攻めたところ、朝倉と古くから関係が深かった浅井が離反。信長は浅井・朝倉と戦うことになった。
・信長が徳川家康を援軍に迎えて浅井攻めに取り掛かり、横山城を攻めたところ、浅井・朝倉の軍勢がこれを迎撃し、姉川の戦いが始まった。
→この戦い自体は織田・徳川連合軍の勝利に終わり、横山城は織田方の手に渡り、浅井・朝倉の戦力にも小さくないダメージがあった。しかし、信長が勢いをかって浅井の本拠である小谷城に迫ることはなかった。また、浅井・朝倉も三年間健在で、信長と戦い続けている。
・理由の一つとして、「姉川の戦いは後世の軍記物などで派手に扱われがちなので有名だが、そのような物語はしばしば徳川軍の活躍をアピールしており、その背景には天下人になった家康・徳川家へのヨイショという事情があるのでは?」が考えられる
・もう一つ、「この時期の信長はいわゆる信長包囲網の時期で、浅井・朝倉との決着をつけられる状況ではなかった」が考えられる。三好三人衆や石山本願寺などと戦い続けていたからだ。
・やがて、畿内の戦いは信長優勢へ傾いていく。一つのきっかけとして、武田信玄が病死した事はあっただろう。信長は後顧の憂いなく包囲網対策に動けるようになった。
→姉川の戦いで活躍したという伝説を持つ磯野員昌なども1571年、居城の佐和山城を織田軍に囲まれて降伏している(裏切ったという文脈で語られることが多いが、「単に城を明け渡して小谷城へ入る予定だったのに入城を拒否され、しかも人質に出していた母親を殺されたから織田へ従うようになったのだ、という話も)
→情勢が悪化する中で1573年、山本山城主・阿閉貞征(あつじさだゆき)が信長に寝返り、また浅見対馬守(あさみつしまのかみ)も内通して、大嶽城(おおたけじょう)が陥落。小谷城が孤立する。
・長政の求めに応じて援軍に出ていた朝倉義景は越前へ撤退するが、一気に追撃してきた織田軍に追いつかれ、国境の利根坂(とねざか)での戦いで敗北。そのまま本拠地・一乗谷城まで攻め込まれ、滅びている。
→この時、朝倉一族の中でも一番の有力者である朝倉景鏡(あさくらかげあきら)、家臣団筆頭の奉行人・魚住景固(うおずみかげかた)が揃って浅井氏への援軍での出陣を拒否。また信長が越前へ攻め込んできた時には魚住景固が信長の道案内をし、景鏡が義景に味方すると偽って誘い込んで追い詰めて死へ追い込むなど、この二人の裏切りは朝倉滅亡にかなり大きな意味があったと考えられる。
・さらに信長は戻ってくるとそのまま小谷城を攻め、長政を死へ追い込んだ。こうして浅井・朝倉は滅亡した。
●敗北して当主が死んでも滅びないケース
・戦国時代末期の九州で「三強」とされるのが、島津、大友、そして龍造寺(竜造寺)である。肥前の地頭から発展し、南北朝時代に少弐氏と結びついて成長。戦国時代にはその少弐氏も圧倒し、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の時には肥前だけでなく筑前・筑後・北豊前まで勢力圏に収めて躍進した。
・勢力拡大を果たした隆信だが、一方で驕り高ぶったり遊びに耽ったりするようになったらしい。また、人質をわざわざ磔で殺すなど残酷な振る舞いも多く、人望を失うところもあったようだ。この時期に、せっかく従えた周辺の国衆への信望を失いつつあったとも。
→ただ、これも「愚かで傲慢な大名」テンプレートなので、どこまで本当だったのかはもしかしたら怪しいのかもしれない。この頃隆信は隠居しているのだが、それは嫡男の政家に権力を移譲するための期間として行ったのだとか、隠居場所に選んだ須古城というところが有馬氏への睨みを効かせる位置だったという話を重視するなら、隆信はちゃんと有能な大名であり続けたことになる。
・そんな中の1584年、以前から対立・和睦を繰り返していた島原の有馬氏が島津氏と結んで反旗を翻したので、隆信は討伐を決断する。さらに肥後、薩摩と進んで島津を攻めるつもりであったという。この時、隆信の義弟で右腕でもある鍋島信生(なべしまのぶなり。のちの直茂)は反対したが聞き入れられなかったという。
・鍋島軍と島津・有馬連合軍は沖田畷(おきたなわて。畷とは湿地帯の中に延びた小道のこと)で激突。当初、連合軍は簡単に敗走していくが、実はこれは罠。「釣り野伏せ」によって引き寄せられた龍造寺軍は敗北し、隆信も討死した。
・しかし、これにより龍造寺がすぐ滅亡することはなかった。名目上隆信は隠居済みで、後継の政家は戦場に出ず健在であったこと。隆信の母で信生の継母である慶誾尼(けいぎんに)が重鎮として存在したこと。また、龍造寺一族の要請により信生が睨みを効かせたことなどが原因である。同年及び翌年には大友氏が攻めてきているが撃退している。また、筑前の秋月種実の仲介により島津との間にも和睦が成立しており、一旦龍造寺は息をつくことができた。
・とはいえ、その後時間があったり、島津氏側に積極的な拡大思想の盛り上がりがあったりしたら龍造寺は滅んだかもしれない。しかしそうはならなかった。中央から豊臣秀吉が進出してきて、龍造寺はそちらへ臣従する事で滅亡を免れたのだ。その後、鍋島による平和的な下剋上を経て、鍋島家が江戸時代へ入って幕末まで続いたのはご存じの通り。
●即滅亡ではないが実質的に命脈が失われているケース
・中国の二強の片方、一度は戦国時代に上洛まで達成した大内氏のケースを紹介する。
→大内氏は古代に百済の王族がやってきて聖徳太子に謁見し、日本に定着したという伝説がある。鎌倉時代より武士として力を持ち、西日本でも有数の大名の一つとして権勢を誇った。戦国時代には新興勢力である尼子氏の台頭もあったが、中国地方を代表する戦国大名だったのは間違いない。
・そんな大内氏が揺らいだのは大内義隆(おおうちよしかた)の時のことである。義隆も名君と言っていい人物であったが、尼子(あまご)氏の本拠地・出雲の月山富田城を攻めて大敗したことなどをきっかけに政治への意欲を失ったと言うのが通説。また、家臣団内部に武断派の陶隆房(すえたかふさ)(陶晴賢(すえはるかた))らと、文治派らによる派閥対立を生み、これを解消することもできなかった。
→一方近年の研究では、義隆は出雲攻め失敗後も別にやる気は失っていないとも。ただ、隆房らとの対立自体はあったようで、義隆が出陣しようとしないのを隆房が批判したりはしている模様(これが「やる気を失った」話に繋がった?)。背景に、どうも義隆が上洛を計画していて、隆房らはそれを止めようとしていたのでは、と言う話がある。
・そんな中1551年、隆房がクーデターを起こし、義隆を自害へ追い込む。とはいえ彼らの強引な行動に反発する家臣団・国衆も多く、あちこちで反乱が起きてその鎮圧に動いたり、クーデターを起こしたもの同士の内紛があったりもしたようだ。それらが落ち着いた後、隆房は大友氏から猶子に入っていた晴英(はるひで)(改名して義長(よしなが))を当主に据え、実質的に自らが大内氏を動かす立場についた。晴賢と名乗るのはこの頃から。
・ここで顔を出すのが毛利元就。安芸の国衆であるが、時に大内・尼子の間を渡り歩いたりしながら勢力を拡大してきた。この時点では大内の傘下にいた彼は晴賢のクーデターには反発しなかったが、備後を巡って晴賢との対立の芽が出て来る。これは元就と晴賢の対立というよりは、毛利氏が中国地方で勢力を拡大していくなら(晴賢の支配する)大内との対決は避けられなかったと考えるべきなのだろう。結果、両者の関係は小競り合い・調略合戦から決戦へ移っていく。
・1555年、毛利軍と大内軍は聖地・厳島で激突した。元就は敵の大軍を狭い厳島へ誘き寄せ、また村上水軍の力を借りることで、大内軍を打ち破り、晴賢も死んだ。
→晴賢は名目上大内の重臣に過ぎないため、これで即滅亡するわけではない。しかし、晴賢を打ち破った毛利は当然大内の領国である周防・長門へ侵攻してくる。晴賢の嫡男である長房が、先の内紛時に晴賢によって殺されていた杉長矩の子供・杉重輔によって攻められ、自決している(この攻撃が毛利の策謀という説もある模様)
→元就は一時期小規模な土豪の一揆に手を焼かされるなどもありつつ防長への侵攻を続け、2年後の1557年になって大内の本拠である山口を攻撃。義長を自害へ追い込み、大内氏を滅ぼした。
→なぜ義長が大友へ逃げなかったかはわからない。しかし、兄の大友宗麟が弟の死後に敵対しない宣言(大内の家督に手を出さない代わりに九州に手を出さないでね、という内容)を毛利に送っているあたり、宗麟は弟を見捨てたのでは?という気もする。
・そもそも末期の大内氏は内紛によって求心力を失っていたであろうと考えられる。そこでどうにか家をまとめていた晴賢が死んでしまうとどうにもならなかったのだろう。むしろ滅亡まで2年持ち堪えた(毛利がせめてくるまでの間に内紛で勝手に潰れたりしなかった)のは大内氏の勢力の確かさを物語るものであろう。
●滅亡までに意外に結構粘っているケース②
・今川氏は室町幕府将軍・足利氏の一族であり、室町時代を通して大きな勢力を誇った。代々受け継いできた駿河守護の地位に加えて、遠江、さらには三河にまで手を伸ばし、今川義元の時には「東海一の弓取り」と呼ばれるに至った。
・その義元が長年に渡って三河・尾張を巡って争っていた相手が尾張の弾正忠織田家であり、言わずと知れた信長の家だ。また、今川の傘下に取り込まれたのが三河の有力国衆・松平氏の元康、のちの徳川家康である。
・1560年の桶狭間の戦いは、過去の通説では「義元が上洛を目指して尾張へ進軍し、その途中の信長と戦った」とされていた。しかし近年はあくまで尾張の支配権をめぐる争いであると考えられるようになっている。そして、桶狭間に陣取っていた義元の本陣を信長の軍勢が攻撃し、義元は討死した。
→のちの信長・家康の華々しい活躍もあって、この桶狭間によってあたかも今川氏がそのまま滅亡してしまったかのようなイメージを持っている人も多いかもしれない。しかし実際には今川氏は義元の死後、9年存続している。
・義元は生前既に嫡男の今川氏真に家督を譲っていた。大いに混乱はあったろうが、本拠の駿府で留守を守っていた氏真は父の死の直後から統治のための手を打ち、葬儀もきちんと行い、駿河・遠江・東三河はしっかりと支配していた。氏真には「バカ殿」的イメージが強いが、ちゃんと手当てをしていたことが史料などでわかっている。一方で、義元が開いた今川氏の最盛期が過ぎ去ったのも明らかだった。
→松平元康、改名して徳川家康は独立し、もともと勢力を広げていた西三河を掌握。また、信長とも同盟を組む。東三河にも進出を続け、1564年には三河から今川の勢力を追い出す。
→1563年の終わり頃からは遠江の状況も悪化を始め、犬井城の天野(あまの)氏・引馬(ひきま)城の飯尾(いのお)氏・見付の堀越氏らが反乱する。いわゆる「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」「遠州錯乱」だ。一応引き締めには成功したものの、足元が相当揺らいでいたのは間違いない(その背景に武田や徳川の干渉があったとも)。
→「遠州忩劇」については歴史ファン的には井伊氏の名前も思い浮かぶことだろう。『おんな城主直虎』でも描かれたように、この出来事の発端になったのは、井伊直親が徳川に内通し、今川に対して謀反を企んだことがあったとされている。しかし、本当に謀反があったのか、「遠州忩劇」とどのくらい関係があるのかよくわからないのが実際であるようだ。
・また、『甲陽軍鑑』などによると三浦義鎮という重臣が氏真の寵愛を受けて、他の重臣との間に対立が起きたという話もあるようだが、これはどこまで本当かわからない。
・1568年になると、徳川が調略を始めるし、武田は武田義信(たけだよしのぶ)と結婚していた氏真の妹を今川に返す事で同盟を破棄。武田の駿河侵攻と徳川の遠江侵攻が同時期に始まり、瀬名(せな)・駿河朝比奈(するがあさひな)・三浦(みうら)・葛山(かつらやま)といった重臣たちが武田に内通を始める。
→氏真は駿府を捨てて遠江朝比奈の掛川城に逃げ込み、そこで徳川軍によって包囲される。縁戚関係が深い北条氏の介入もあって、「遠江の家康への割譲、駿河の氏真への安堵、氏真の掛川城退去」を条件に和睦が成立。この話は「駿河を取り戻す」ことが前提になっており、氏真はとりあえず伊豆戸倉城(とくらじょう)に入ったが、実際には駿河は武田の手に落ちたので、そのまま北条の庇護を受けることに。今川の名跡も北条氏直に継承されることになって、戦国大名・今川氏としてはここに滅亡となった。
→どうして氏直が今川の名跡を継承したのか(今川当主になったか)というと、まず「駿河へ進出するための大義名分」だったのだろうと考えられている。それに加えて、近年の研究では「実は氏直はこれまで信じられていた通りの正室の息子ではなく、側室の息子だったので嫡男ではなかった」(だから当初はそのまま今川当主になる予定だった?)という説が上がってきている。武田勝頼が諏訪当主としてそのまま生きる予定だったのとちょっと似ているかもしれない。なお、その後結局氏直は北条家に戻ってきていて、氏真が今川当主に戻っている。
→その後の氏真は武田と結んだ北条に追い出されるなど、放浪及び家康含む大名たちの庇護を受けながら一生を終えた。結構小説のネタになるようなドラマチックな人生ではある。子孫は高家になっている。
●滅亡前に最大版図を達成しているケース
・甲斐の武田氏は新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)をルーツに持ち、源平合戦の頃から戦国時代まで長く勢力を保ち続けた名門武家である。特に武田信玄(晴信)の頃には各地へ進出。ライバルと見なされることも多い上杉謙信との五度の川中島の戦いを経て信濃を支配したことをはじめ、西上野・飛騨・東美濃・駿河を制圧。織田信長・徳川家康とは同盟・対立を繰り返し、晩年に三河へ進出して家康を打ち破るが、その出陣中に病死した。
・偉大な父・信玄の跡を継いだ武田勝頼はたびたび東美濃・奥三河・遠江へ兵を出し、家康と戦い続けた。しかし1575年、三河の長篠城を攻撃したところ信長・家康の連合軍によって大敗した。この戦いで武田は信玄の時代以来の有力な重臣たちの多くを失った。また、いわゆる「三千丁の鉄砲による三段撃ち」伝説が有名になったこともあって、武田氏はこの戦いで滅びたようなイメージを持たれることも少なくない。では、実際はどうだったのか。
・人的損害が大きかったのは間違いない。いわゆる「武田四天王」のうち馬場信房(ばばのぶふさ)、山県昌景(やまがたまさかげ)、内藤昌豊(ないとうまさとよ)が討死しているし、他にも名のある武将が数多くこの戦いで死んでいる。真田昌幸の兄二人もこの時に死亡した。勝頼は人事の再編に奔走しなければならなかった。また、三河から追い出され、東美濃の岩村城を取り返され、遠江でも押し込まれ、と織田・徳川連合軍との戦いが厳しかったのも事実である。
・しかし、勝頼は内政・外交の再編に奔走し、関東の北条氏(信玄時代の後期に同盟が復活していた)に加えて越後の上杉氏とも同盟を結んでいる。ただ、上杉謙信が亡くなった後の上杉内部での後継者争いにおいて、北条出身の景虎を支援するべく一時は出陣したものの撤退、後継者争いに勝利した景勝と同盟を結んでしまったせいで北条との関係は破綻してしまっている。しかしそれもあって上野方面へ進出した結果、1580年の終わり頃には信玄時代に勝るとも劣らない領土を獲得する(武田氏最大版図とも)に至る。
→しかし、駿河では北条に、遠江では徳川に攻められる状況が続いてやがて疲弊し、上野方面でも押し込まれていく。
・長年の本拠地であった甲府から、韮崎の新府城へ移るなど改革も進めたが、間に合わない。
・1581年、高天神城(信玄が攻め落とせなかったが勝頼は攻め落とした城として、勝頼の有能さの表現によく使われる)が落城。この城について勝頼は信長との和睦交渉を優先して織田を刺激しないためにほとんど見殺しにしてしまい、そのせいで家臣団の信頼を失ったという(勝頼は勝頼で和睦さえできれば高天神城を救えると考えていたであろう)。
・ついに1582年、木曾義昌(きそよしまさ)・穴山信君(あなやまのぶきみ)という親族衆の相次ぐ裏切りが発生。すると、国衆たちも雪崩を打って裏切りを始める。これによって勝頼は追い詰められ、織田信長による甲州征伐を支えきれなくなり、折角の新府城を捨てて岩殿城へ逃げようとしたところ、やはり親族にあたる小山田信茂(おやまだのぶしげ)に裏切られ、織田軍に攻められて自害へ追い込まれた。
・長篠の戦いは確かに武田滅亡への大きなターニングポイントではあったろうが、それだけで滅亡したわけではない。多方面に敵を増やしすぎたこと、その戦いの中で領内と家臣に負担をかけすぎたことが原因で、最終的には信用出来る味方がいなくなったのが一番の原因ではないか。
→この視点で考えると、御館の乱での選択の失敗が大きいと言えそう。景勝を支持したせいで単に北条家との関係が悪化しただけでなく、そこまでしてせっかく味方にした上杉は織田をさほど圧迫してくれない(むしろ北陸方面担当の柴田勝家に押し返されている)。結果として武田は追い詰められた。
●まとめ
・本拠地を舞台にしたものでもない限り、決戦で負けて即滅亡はしない。
→敵が一気に本拠地へ踏み込んでくる可能性もなくはない(朝倉のケース)
・滅亡する前には何らかの理由で家臣団の信望を失っていることが多い。敵の攻撃から守れなかったり(武田のケース)、方針が衝突したり(大内のケース)、そもそも内部対立があったり(蘆名のケース)
→物語的に「愚かな君主」としてキャラクター付けされることも多いが、後世の創作じゃない?という気もする。
・滅亡する際には有力な重臣が裏切ったり、国衆たちが雪崩を打って敵側についたり。結局のところ封建制だから、土地を持つ領主たちは主君が危うくなったら寝返って当然ではある。
・結論としては「本拠地を攻め落とされるか、家臣団からの信望を失うか」が戦国大名滅亡の原因なのではないか。

新カメラを導入

今回から新しいビデオカメラ(SONY FX30)で撮影しました。
まだほぼ初期設定のままなのですが、映像も音声もかなりいい感じに録れてるのではないかと思います。
もうちょっといろいろ試していけばさらに向上できそうです。

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