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【江戸時代のお家騒動】黒田騒動 忠臣の中の忠臣・栗山大膳、命懸けの直訴

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【時期】1632年(寛永9年)
【舞台】福岡藩
【藩主】黒田忠之、黒田長政
【主要人物】黒田忠之、栗山大膳

長政は藩の行く末を案じながら死去

黒田長政は豊臣秀吉の有能な参謀として知られる黒田孝高を父に持ち、自身も関ヶ原の戦いで小早川秀秋を寝返らせて東軍の勝利に大きく貢献するなど、名の知られた武将である。

その関ヶ原の戦いでの功によって長政は筑前一国を与えられ、ここに福岡藩を成立させた。
総検地を行うなど藩の基盤を整えることに力を尽くした長政は、領土を分散させて自分の息子たちにそれぞれ相続させることで、福岡藩の支藩を成立させ、黒田家による支配をより一層強固なものにしようとしていた。

しかしそんな長政にも、憂慮しなければならない事柄があった。
わがままで不行跡が目立つ嫡男・忠之のことだ。長政の男子は4人いたが次男はすでに亡くなっていたため、三男の長興に5万石、四男の隆政に4万石をそれぞれ相続させて支藩をつくり、残りの領土を新たに藩主となる忠之に与えようと長政は考えていた。
ところが先述したように、忠之の品行は良くない。病に倒れた長政は自分の死後のことを憂えて、死の淵にありながらも重臣たちを集め、忠之の後見について言及している。その数日後、長政は56歳で息を引き取った。

重臣・栗山大膳が「藩主が謀反を企てている」と上訴

ところが亡き父の、そして家臣たちの思いとは裏腹に、忠之は不行跡を繰り返した。
倉八十太夫という児小姓を寵愛し、彼を重役に召し上げたいがために家臣の序列を無視したり、軍縮を求める幕府の方針に逆らうように、鳳凰丸という大船を建造して足軽の数を増やしたりなど、藩主としての責任感があまりにも欠けていた。

このような事態についに動いたのが、黒田家の重臣・栗山大膳だ。
大膳はたびたび忠之に忠言し、その行いを改めさせようとしたものの、忠之は耳を傾けなかった。それどころか忠之は大膳のことを疎ましく思い、遠ざけようとする始末であった。
そのため大膳は、忠之が目をかけていた十太夫を隠居処分にし、主君の目を覚まさせようとしたものの、これを知った忠之が激怒。大膳に切腹を命じるまでに、2人の仲はこじれてしまったのである。

しかしそれでも大膳は引き下がらなかった。そして、主家を守るために思い切った行動に出る。なんと、「忠之が謀反を企てている」と幕府に訴えたのだ。
このままでは黒田家は改易の危機を迎えることになる。そうならないために、あえて騒動を起こし、その後で無実を証明することによって主家を存続させようという、なんとも危険な賭けであった。君主を守るために騒動を起こすというのは、他のお家騒動には見られない黒田騒動の特徴である。

この大膳の訴えに対し、幕府は忠之の不行跡を咎めはしたものの、謀反の疑いはないという裁定を下した。
ただしお家騒動を招いた罪として忠之から領地を没収。とはいえこれは形式的なものであり、忠之はすぐに再び領土を安堵された。そしてその後、幕府は忠之が独断で藩政を行うことに制限を加えている。

対して大膳は訴えを起こした責任を問われ、盛岡藩預かりの身となった。
だが大膳に関しても幕府の措置は寛大で、彼の身内への処罰は禁じられた。また大膳は盛岡藩から150人扶持(1人扶持は1ヶ月で1斗5升)を給与されており、さらに五里四方における自由な行動も許されている。
大膳はこの地で、62歳まで生きたと伝わっている。

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