ドラマの方では、物語序盤のヒロインとして活躍した帰蝶に続いて、明智光秀の人生を彩る重要な女性が登場してきた。光秀の妻、(妻木)煕子である。この時代の有力武将にしては珍しく側室がいないということで、二人の関係は良好であったと伝えられている。
逆にいえば、当時の常識としては光秀の方が特殊だったはずなのだが、現代の私たちからすれば光秀夫婦の方が普通に見えてしまう。これが歴史の難しさだが、ドラマにした時の共感を考えると、昨今の世間の好みに合致しているということでもある。
もしかしたら光秀が大河ドラマ主役の座を射止めることができたのも彼女の存在ありき、すなわち内助の功のおかげだったのでは――と考えたら、流石に邪推のし過ぎであろうか。
この時代の女性の例にもれず、煕子についてわかっていることは少ない。出身が妻木氏(土岐郡妻木城の国人)なのは間違いないだろう。父親の名として妻木勘解由左衛門範煕の名が上がっている。
両者の生まれからして、光秀と煕子は美濃時代から既に夫婦だったはずだ。結婚直前、天然痘にかかった煕子は己の顔に残った痕に悲観して結婚の中止を求めるも光秀が拒否したとか、明智城が陥落して戦火を逃れた際には、腹の中に子を宿した彼女を光秀が背負って美濃から出たとか、この時期の美談が残っている。
光秀と煕子の美談といえば、決定的なものがある。辛い浪人ぐらしを一旦終えて、越前朝倉家のもとへ落ち着いたあとのことだ。放浪は終わったが苦しい暮らしに変わりはない。
そこに厄介事が舞い込んできた。朝倉の重臣たちが参加する連歌会を取り仕切ることになったのだ。当時のことだから宴がセットになっている。そして、武家の社交は基本的に主催者の持ち出しだ。そんな金はないが、かといって会が失敗すれば光秀の名誉に傷がつく。進退窮まった彼に、煕子が大金を差し出した。見れば、彼女の美しい黒髪がバッサリ切られている。髪を売って金を作ったのだ……。
これらの逸話・美談をどこまで信じるかはともかくとして、江戸時代以降比較的広く知られ、光秀夫妻のイメージを形作るもとになっていたのは間違いない。先の黒髪のエピソードは、後の江戸時代中期に越前丸岡を訪ねた松尾芭蕉の耳に入った。その後、この出来事がよほど印象的だったのか、伊勢で歓待してくれた弟子の妻に煕子の姿を重ね、「月さびよ/明智が妻の/話せむ」という俳句を作っている。
話を戻そう。織田家臣となった後の光秀夫婦は、急成長の大名の重臣として、立場にふさわしい裕福な生活ができたはずだ。しかし、煕子は夫を思うことを忘れなかったと見える。本願寺との戦いの中で病にかかった光秀を看病したことから、自分が病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった……。