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【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府4代・徳川家綱――安定期の病弱将軍「左様せい様」 1641年~1680年

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優しき将軍・家綱

家綱は家光の長男だが、晩年になってようやく生まれた子でもあった。そのため家光の喜びようはなみなみならず、大喜びで生まれたばかりの産室に飛び込んだ、というほどだ。
家綱は優しい性格であったようだ。幼少のころ、流罪の話を聞いて「死刑を免じて流罪にするのに、その先が誰もいない島では、餓えて死んでしまうのではないだろうか」と考えた。これを聞いた家光はその着眼点と優しさを喜び、流罪人に食料を与えさせることに決め、またこのことを家綱の最初の政策とした、という。

将軍になってからのことだが、本丸天守閣で「遠眼鏡で町を見物してみてはいかがでしょう」と勧められた家綱が「将軍が遠眼鏡で町を見張っていたら、人々はいやな気持ちになるだろう。それは軽々しい行いだ」と断った、という話もある。
また、趣味としてずいぶん馬術を好んだようで、ほとんど毎日のように乗馬に励んだ時期もあったらしい。記録に残っているだけでも、歴代1位の乗馬回数だ。一方、父と違って鷹狩りには熱心でなかった。

老中たちによる政治の始まり

ともあれ、家光晩年の子であるから、父が48歳で病死し、嫡男の家綱が後を継がなければならないとなったとき、彼はまだ11歳であった。
そこで、叔父の保科正之が後見人としてつくことになり、また家光時代からの重臣である酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋といった人々が政治を主導していくことになった。
それまでは十分に経験を積んだ人間が将軍になる、あるいは先代将軍が大御所としてまだ未熟な将軍を導くような形で、老中や若年寄といった家臣団はその補佐、あるいは手足となって働く存在であった。それが、家綱以降(正しくは、家光時代の終盤)からは重臣たちがある種の合議制を形成するようになる。
現代風にいえば、ワンマン社長の時代が過ぎて、専務や常務といった役員たちも大きな発言力を持つようになった、というところか。

このような体制が成立したのは、家綱が幼かったことに加え、生来病弱であり、また政治へ積極的にかかわろうとはしなかったことも影響している。
彼は画技・茶の湯・幸若といった文化を好み、政治は重臣たちに任せた。それでも、叔父をはじめとする側近たちがいたころはまだ、政治にもかかわっていたらしい。酒井忠勝が彼に「いくら将軍でもままならないことはあり、じっと耐えることも必要になります」と心得を説いた、ともいう。
しかし、彼らに代わって酒井忠清が政策の主導権を握ると、政治から興味を失っていったようだ。以後は何を問われても、返す言葉は決まって「左様せい(そのようにしろ)」――彼が「左様せい様」と呼ばれたゆえんである。忠清は強大な権勢を誇ってたびたび批判された人物なので、家綱とは合わなかった、ということなのだろうか。

浪人の不満と江戸を焼いた大火

そんな家綱の治世下は、基本的には三代かけて構築してきた江戸幕府というシステムがうまく機能し、安定した時代なのだが、2つの大きな事件が起きている。

ひとつは「由井正雪の乱(慶安事件)」である。家光の亡くなった1651年(慶安4年)、これを好機と見た兵学者・由井正雪とその一党が浪人を集めて討幕を企てたのである。この事件そのものは未然に鎮圧されたものの、幕閣に与えた衝撃は大きかったようだ。
その背景には、家康・秀忠の時代以来多くの大名を取り潰したせいで浪人が数多く生まれ、彼らの存在が日本全体の治安を悪くしていたことがあった。大名が反乱を起こすことを警戒して次々と改易にしたのが、逆に治安の悪化を招いた、というのは皮肉なことである。
以後、幕府の方針は人間の生命を尊重し、家を守る文治主義にシフトした。結果、浪人の発生を抑えるため、末期養子(死の寸前に養子を取ること)が一部制限つきながらも認められるようになって、「子供がいないから断絶」ということがなくなった。

もうひとつの事件は、1657年(明暦3年)の「明暦の大火(振袖火事)」である。乾燥して強風が吹いた冬の日に起こった大火は、木と紙でできた江戸の町並みをあっという間に焼き尽くした。焼死者は10万人に達したというから、尋常ではない。振袖火事という別名は「病死した娘の振袖を寺で燃やして供養しようとしたら、その炎が燃え上がって火事の原因になった」という話からきているのだが、これはあくまで伝説であろう。
この大火によって江戸城もすっかり焼けてしまい、特に天守閣は燃えたまま後々まで再建されることはなかった。これは保科正之が「今はもう戦乱の時代ではなく、天守閣を作り直しても役に立ちません」と進言したためだという。そのため、今は皇居となっている江戸城にある城風の建物は櫓であって、天守閣ではないのだ。

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