大名たちの藩政改革
幕府による大名統制にさらされた大名たちは、どのように藩政を整え、生き残りを図っていったのであろうか。
ここからは視点を幕府から大名に移し、江戸時代の変遷を見つつ、その中での大名と藩政の動きを見ていくことにしよう。
織豊政権期から江戸時代初期にかけて、外様の大名たちは内と外に対してそれぞれ大きな問題を抱えていた。
外部に対しては、ここまでずっと見てきたように、次々と移り変わる情勢と、絶対的な強者として様々に圧力をかけてくる天下人の存在が最大の問題であった。隙を見せればいつ言いがかりを付けられて滅ぼされるかわからないのだから、とにかく必死だったはずだ。
一方、内に対しては、独自の発言力と既得権益を抱えている有力武士の存在が問題だった。そこで諸大名は知行制度を変更していくことで支配体制を確立する道を選んだ。
旧来の知行制度は「地方知行」といい、知行を土地という形で与え、家臣がそこで収穫された米を収入として得る方式だった。これを「蔵米知行」「俸禄制度」という、土地はすべて藩のものとし、一度藩の蔵に入った米を家臣たちに配る方式にしたのだ。
つまり、「この土地から得られた米が自分のもの」という制度が、「決まった量の米を藩からもらう」制度に変わったわけだ。これによって第一章でも触れた「武士と土地の切り離し」が加速した。大名といえどもその意向を無視できなかった有力武士、一門衆たちが、土地から切り離され、実力によって大名の支配をひっくり返す力を失い、ただ片務的な忠義心を示す近世武士へと変わっていくこととなったのである。
有力家臣団や一門衆をあくまで大名に従う家臣とする際に効果を発揮したのが、幕府による一国一城令であった。これは一国につき城は一つ(一国に複数の大名がいる場合は各大名ごとに一つ)とするもので、その結果、一部の例外(要害という形で城に準じるものが残った伊達家、旧来の城の多くがそのまま残った島津家など)を除いて自然と「城は大名の居城一つ」となった。
これにより、それまでは自分の城を持っていた有力家臣団・一門衆が、その拠点である城を失って、大名の居城に出仕する家臣となったのだ。ここで起きたことは、かつて農地にいた武士たち、国人衆などが城下町に集められた時のこととよく似ている。独自の地盤を失った彼らは「いざとなれば兵を集めて反乱を起こす」というカードを失い、大名に対して反撥することが難しくなった。かくして、大名はさらに権力を自らのもとへ集中させていったわけだ。
別の形で一門衆の力を奪い、大名の権力を強化した家として、肥前国大村藩・大村家がある。この家は戦国時代より大貿易都市・長崎を領有し、その富によって大いに潤っていた。しかし中央政権に服従する過程で長崎を失い、これに代わる財源を必要としていた。
そこで大村喜前の息子、純頼の発案で実行したのが、約2万7千9百石の所領のうち約8千石を占める大村一族15家の所領を強引に没収することであった。これを「御一門払い」という。この処置によって大村家の力は飛躍的に高まり、一門衆の発言力は弱まって、近世大名的な大名・家臣の力の構造がつくられることとなったのである。
家臣の分裂を抑えられず……
江戸時代初期には家臣団との軋礫の末に混乱が生じ、幕府の介入を招くような家もあった。黒田家や前田家などが有名な例なのだが、この二家は御家騒動を起こしながらもどうにか家を存続させている。
悲劇の家となったのが、東北の雄として戦国時代に名をはせた最上家だ。
この家は江戸時代初期のトラブルの末に、ついには大名ではいられなくなってしまったのだ。
最上家を躍進させた最上義光は、伊達政宗の叔父にあたる人物で、内乱の続く最上家をまとめると、たびたび甥の政宗と戦いながら勢力を広げていった。関ヶ原の戦いでは東軍に与し、西軍の上杉勢による攻撃にさらされながらもよく守りきり、戦後には山形藩57万石の大大名にまでなったのである。
ところが、2代目の家親が36歳の若さで変死(毒殺とも)してしまったせいで、その子の義俊が弱冠13歳で跡を継ぐことになった。しかも、山形藩では兵農分離が不徹底で、家臣団の近世的武士への転換が上手くいかなかったため、内紛の可能性が強く残っていた。
幕府にとっても警戒すべき対象であったらしく、なんと老中の連署による七ヶ条の命令が下され、幕府による直接の監督が行われた。これは非常に異例のことである。
にもかかわらず、義俊は藩政をまとめることができず、酒色におぼれた。結果、山形藩内は義俊を擁護する者と、彼を藩主から引きずり降ろそうとする者に分かれ、激しい対立が起きた。
その後、擁護派が幕府に訴えて老中による取り調べが行われ、裁定が下されたが、「とりあえず所領を没収して6万石とするが、家臣団がきちんと一致団結して義俊を補佐するならば、彼の成人後に所領を元に戻す」という極めて温情的なものだった。
これは、義光が関ヶ原の戦いにおいて上杉軍を抑えるなど、幕府にとって重要な役割を果たしたことを認めてのものである。
ところが、義俊を引きずり降ろそうとしていたグループが和解を拒否したため、ついに最上家は1万石の大名となってしまった。4代目の頃にはさらに半分の5千石となり、やがて交代寄合(参勤交代の義務を負った旗本)となって、幕末まで続くこととなる。
積み重なる借金と藩政改革
時代が進む中で藩財政の赤字は慢性化していった。既に述べたように、幕府による大名統制が多大な財政負担を強いたため、これはある程度仕方がないものといえる。
これに対して、諸大名は倹約の励行や家臣の知行・俸禄を減らすなど、支出の削減に努めた。特に有名なのが「借上」で、これは知行・俸禄の一部を「藩が借りる」という形で一時的に支給停止したり、商人に与えた免税特権を一時的に停止したりするものだ。
一時的とはなっているが、実際には毎年継続されて知行の削減につながっているケースも多く、家臣団の恨みを買う結果になったようだ。
他にも、藩財政を助ける要因はあった。商工業や農業生産が発展したことによって収入が増加した。また、もともと領内の貨幣不足を補うために発行していた独自の紙幣「藩札(後代の呼び名。当時は「藩」とは呼ばなかったので、幕府の発行する貨幣と対応する金札・銀札・銭札などの言葉で呼んだ)」の存在も、藩財政を助けた。
しかし、結局は豪商たちから多額の借金を重ねることになり、さらなる困窮へとつながっていくことになる。
時代がさらに進み、18世紀に入ると、幕政では8代将軍・吉宗による享保の改革や、それを手本にした老中・松平定信の寛政の改革などが行われ、大名たちも江戸時代初期とは違う形での藩政改革の必要に迫られることになる。
その背景となったのは、貨幣経済の発達と浸透であった。これによって農村は商品作物の生産や家内工業によって一部に富が蓄積されていったものの、一方で自給自足の経済システムが崩壊することになり、富むものと富まざるものがくっきりと分かれていくことになる。
これは享保の改革で実質的な年貢増徴策がとられた(豊作の年も凶作の年も年貢率が変わらない、など)ことによってさらに進んだ。
結果として、貧しい百姓から借金のカタとして得た広大な農地を小作人に貸す豪農が出現する一方で、土地を失って彼らのもとで小作人として働いたり、あるいは都市に出て生活の道を探さざるを得なくなる貧しい人々もまた現れたのである。
加えて、天候不順や火山の噴火などの災害が頻発したため、たびたび大規模な飢饉まで起こってしまい、百姓はさらに農村を離れていく。農村の崩壊である。これが年貢収入の減少にもつながってしまった。このような中でしばしば農村部では大規模な百姓一揆が起き、都市部では打ちこわしが起きて、藩政が脅かされた。
そこで、幕府が改革を進めたように、諸藩でも藩主が自ら改革の先頭に立つ形で藩政改革が断行されるようになる。その中で、後世に「名君」と讃えられるような優れた藩主も現れた。米沢藩主・上杉鷹山(治憲)や、熊本藩主・細川重賢、秋田藩主・佐竹義和などがその代表例である。
彼らは藩校の設置や人材の登用によって強力な政治体制を作り上げた。また、不正役人の粛清や代官の現地駐在制など地方支配体制の再編と強化によって農村の動揺を抑え、荒廃した田畑の再開拓・崩壊した農村の復興によって農業生産力を復活させた。
財政問題に対しては、儀式の簡略化や衣服・食事、さらには人件費などの出費をなるべく軽減する徹底した倹約による緊縮体制で支出を抑え、また収入を増加させるために産業を保護・育成する殖産興業政策をとった。
具体的には、商品作物に代表される特産物生産(砂糖、塩、木綿、漆、和紙、蠟などが代表的)を奨励した上でその販売を藩および藩が認めた商人に独占させ、利益を得る専売制度の実施である。
これらの改革は幕末期にも継承され、一定の効果をあげている。
幕末期、さらなる改革へ
時代が幕末期に入ると、大名たちを巡る事情もさらに大きく変わっていく。以前からあった農業問題・財政問題の悪化に加え、イギリス・ロシア・アメリカなどの諸外国が開国を求めて圧力をかける外圧問題が起きることによって、幕藩体制そのものの動揺が進んだからだ。
幕府において老中・水野忠邦の天保の改革が実行されていたのと同じ頃、やはり諸藩でも様々な改革が行われていた(これに先立つ文化・文政年間にも行われていた)。
天保の改革は保守派の反発が強く、また行き過ぎた倹約が大衆に不人気だったこともあり、実質的には失敗に終わった。その一方、諸藩では特に薩摩・長州など西国の外様大名を中心に改革を成功させて大きな力を持つようになった「雄藩」が現れ、幕藩体制の枠組みを越えて独自の動きを見せるようになっていく。他方、東北諸藩には改革の動きが乏しい。
この時期の改革を主導したのは、優秀な藩主あるいは重臣と、彼らによって取り立てられた人材であり、その中には中〜下級武士出身者も珍しくなかった。たとえば天保期に薩摩藩の改革を進めた調所広郷と、長州藩の改革を進めた村田清風はともに下級武士出身で、それが藩主による抜櫂によって改革の主導権を与えられたものである。
のちに雄藩の代表格となる両藩が、それぞれ下級武士による改革で力を蓄えた、というところが、封建社会の衰退を象徴しているかのように思えてならない。
改革の性質については、東国と西国で少なからず違いが見られた。
東においては以前から行われていた藩政改革の手法が継承され、荒廃した田畑の復興。農村の再生といった農業方面重視の政策が行われた。その代表例が相馬・小田原・鳥山・谷田部・下館などの諸藩で行われた報徳仕法(尊徳仕法)――「二宮金次郎」こと二宮尊徳の改革手法である。
これに対して、西南諸藩は殖産興業政策をさらに進めていく。この頃に民間で興っていた、賃金労働者が集まって分業による生産を行う工業生産、いわゆるマニュファクチュア(工場制手工業)を藩主導で行う藩政工場の創設や、特産物の専売・交易をさらに推進するなど、近代化する経済の波に乗るような動きを見せたのだ。
その他、軍事面の改革も熱心に行われ、ヨーロッパ式の武器や軍制などが導入された。
藩が抱えていた借金の猶予を強要するなどの商人抑圧方針や、藩庁や藩校の改革による人材面・システム面での向上、財政危機を解決するための金融緊張政策や新たな財源の確保などが特徴として挙げられる。
もちろんこれらの改革がすべてのケースで成功したわけではなく、たとえば中小藩などでは商人・豪農らが藩政への影響力を強めてしまう例などもあった。
しかし、改革を成功させて主体性を確立しえた雄藩は、幕府が諸問題に揺れる中で独自の方向性を模索するようになり、また幕政にも積極的に関与するようになった。かつて生き残りのために幕府ヘの恭順姿勢を貫いた大名たちが、2百年の沈黙の末に動き出したのである。
これは外様大名たちが長きにわたって幕府の要職から締め出されていたことから考えると非常に画期的なことであり、また保守派からすると非常に危険なこととも映り、大きな衝突も起きた。
12代将軍・徳川家慶の後継者を巡る政争では外様大名を中心とする派閥と譜代大名を中心とする派閥が対立し、また開国・貿易を巡る問題にも雄藩が盛んに口を出した。
かくして時代は動乱の幕末へと突入し、諸藩・諸大名はそれぞれに生き残りを図っていくこととなったのである。