信長による常備軍の創設
これらの戦国大名の支配力強化策は織田信長によって一つの結実を迎える。それによって武士・大名の性質もまた大きく変わっていくことになった。
信長の政策の中で特にクローズアップされるのは、″常備軍の創設″である。
既に述べたように、当時の武士たちは土地に強く結びついていた。それに対して信長は彼らを土地から引きはがし、城下町に住まわせることで専業の兵士とした。これはいわば自営業の商店主たちを社員として迎え入れたようなもので、経済政策に熱心だった信長だったからこそ実現できた政策といえよう。
結果として、織田軍団は他に類を見ない機動力を獲得した。半農半兵の下級武士を主力として抱える一般的な軍団が農繁期である秋に動けなかったり、遠征がしにくかったりと多くの制約を持っていたのに対し、そういった農業的な事情に縛られず、自在に動けたのだから当然だ。
また、信長が当時日本にやってきて間もない火縄銃を活用できたのも、「専業兵士だからこそ、扱いの難しい新兵器をきちんと訓練させる時間があったから」と考えることもできるだろう。
同種の変化は大名にも訪れた。従来の戦国大名や国人たちが自分の本来の所領周辺での所領の奪い合い、広くても一国か一地域での勢力争いに終始していたのに対し、信長は近畿を中心に東は関東や北陸、西は中国にまで広がる勢力を築いていった。
そんな中、織田政権は征服した地域の国人・大名を取り込むだけでなく、家臣たちに恩賞として征服地域を与えていく。
結果、本来その地とはまったく関係のない、多くの領主が生まれた。これは本来の所領から遠い場所に縁がなかった、従来の戦国大名にはない動きである。
また、突如抜櫂されて大きな加増を受けた大名は、従来の家臣や移動先の国人たちだけでなく、新参の家臣をよそから集めてこなければならない。当然、彼らも所領の庶民たちとは一切関係がない。
このようにして誕生した新領主はその地との強い因縁を持たない。つまり、古くからの関係性などを気にしないですむため、従来の領主たちの政策を継承せずに新たな道を目指すにあたっても、またその地の国人たちを家臣団に組み込むにあたっても、有利に進めることができた。
信長が革新的な政策を次々と実行してその力を拡大するにあたって、このような事情がバックボーンとしてあったと考えるのは、ごく自然なことであるはずだ。
もちろん、いいことばかりではない。海のものとも山のものともつかぬ新領主がいきなりやってきて、それまでのやり方とまったく違うことをやりだせば、国人にせよ、農民にせよ、反撥するのが当たり前だ。
特に、その地の大名を滅ぼすことによって得られた新所領ともなれば、旧臣の蠢動が大きな問題となる。
実際、信長が本能寺の変で倒れると、この問題が表面化する。武田攻めの功績によって甲斐を与えられた河尻秀隆は国人たちの反乱や一揆によって攻め滅ぼされたし、同じく上野を与えられて関東・東北方面との交渉にあたっていた滝川一益が北条家に負けて関東を追い出された背景にも、家臣団として取り込んでいた国人たちの反抗があった。
各種のマイナス面はあったにせよ、これらの変化が中世武士・戦国大名たちを近世武士・近世大名へと変貌させていったのは間違いない。
戦国大名の家臣たちはそれぞれ累代の所領を持ち、その地の領民たちと深い関係を築いていた。下級の武士に至っては領民と区別できない存在である。さらに、家臣団と大名の間にも先祖代々のつながりがあった。結果として、大名とは「土地に深く根を張った大木」のようなものであったのだ。
しかし、信長以降はこの構図が変わっていく。大名も、その家臣も、土地や領民たちに対して深いつながりを持たない。武士は城下町に、農民は村々に住み、その領域が明確に分けられていく。
武士のパラダイムが大きく変わっていったのだ。
豊臣秀吉の天下続一
織田信長は天下統一を目前にして謀反に倒れたが、代わってこれを成し遂げたのが織田家臣の豊臣秀吉(羽柴秀吉)であった。
秀吉は豊臣政権の安定を目指して武士・大名に積極的な干渉を繰り返し、この影響を受けて武士・大名のパラダイムはさらなる変化を遂げていく。
秀吉は農民たちから武器を取り上げ、信長の兵農分離政策をさらに推し進めた。さらに、天下統一の過程やその後の治世の中で多数の大名たちを取り潰し、功績のあった者たちを大幅に加増し、それにともなって大々的かつ全国的な大名の移動を行った。
たとえば、鎌倉時代以来の名門の末裔である宇都宮鎮房は、九州征伐軍を率いて進行する秀吉に臣下の礼を取らなかったため、豊前から伊予への移動を命じられ、代わって黒田孝高がそこに入ることになった。これに反撥した鎮房はゲリラ戦を展開して孝高を苦しめたが、最終的には彼の策略によっておびき寄せられ、酒宴を装って暗殺されてしまった。
秀吉と対立した関東の覇者・北条家も滅ぼされ、東北地方の諸大名のうち、秀吉による北条攻めの命令を無視し、かつ秀吉とよしみを通じていなかった大崎、葛西、黒川といった大名は取り潰された。
秀吉は旧織田家時代の同僚たちも例外としなかった。
織田家の重臣であった丹羽長秀の丹羽家は、長秀の生前には秀吉に厚遇されたものの、その死後には厳しい扱いを受け、大いに所領を削られてしまっている。
織田政権の関東方面司令官であった滝川一益は、関東を追われたのちにしばらく秀吉と敵対していたが、やがて降伏。その後は秀吉の支配下に入ったものの、小牧長久手の戦いにおいて徳川家康にあっさり敗れたことから秀吉の怒りを買い、以後は出家・蟄居して余生を過ごすことになった。
同じく秀吉と敵対した佐々成政も最終的には降伏し、その後羽柴姓と要地である肥後のほとんどを与えられたが、国人一揆を勃発させてしまい、切腹へと追い込まれてしまったと伝えられる。
このような反発が起きるのは前回紹介した通り当然なのだが、さて秀吉はそこまで考えていなかったのか、それともあえてかつての同僚を死へ追い込んだのか。
秀吉の大名鉢植え政策
天下人となった信長・秀吉の政策に従う形で、多くの大名たちが本領より遠く離れた新たな所領に赴いた。従来の土地と結びついた武士のあり方からすればとんでもないことだが、結局のところ、大名たちがこの時代に生き残るためには、絶対的な実力者である秀吉に逆らわないことが肝要だった、ということなのだろう。
その中で特筆すべき存在が、徳川家康である。
家康は信長の同盟者として実質的に織田政権に組み込まれた存在であったが、その死後は独自の勢力拡大を図る一方、信長の次男、信雄を支援して旧織田政権内の後継者争いにも干渉した。
小牧長久手の戦いでは秀吉に対して優位に立ったものの、信雄が勝手に講和してしまったために大義名分を失い、やがて豊臣政権に組み込まれる。
この時期の徳川家は豊臣政権下でも屈指の大大名であったが、小田原征伐後、家康は代々受け継いできた三河を含む東海から、関東への国替えを命じられ、本領を手放すことになった。
これは家康を遠隔地へ移してその脅威を削ごうとする秀吉のたくらみであったとされる。家康ほどの大名であっても、これには従わざるを得なかったのである。
この配置転換から逃れて、かつ本領を保持できたのは、ごく少数の、それも中央から離れた遠隔地の大名だけだった。すなわち、陸奥の南部・津軽・岩城・相馬、出羽の最上・戸沢、常陸の佐竹、中国地方の覇者として早くから秀吉に協力した安芸の毛利、土佐の長宗我部、対馬の宗、肥前の松浦・五島・大村・鍋島(龍造寺)、肥後の相良、そして薩摩の島津などである。
秀吉はこうした一部の例外を除き、大名をその家臣団とひとまとめにして、自らの思惑に従って全国各地へ移動させた。
そのためには、大名の側にある種のシステム化された統治体制――のちに″藩体制″と呼ばれるものが必要であり、全国政権としての豊臣政権において「どの大名がどこに行っても同じ統治ができるように」するための均一化された制度が必要だった。たとえば、太閤検地において、度量衡が統一されたようなものである。
信長が大名たちという木の地面に張り巡らせた根を斬ったとするなら、秀吉はそれをさらに徹底的に行って「鉢植え」にしてしまった、というところだろうか。
この姿勢は江戸幕府へと継承され、先述した「転封を免れた大名」のうち、江戸時代に至っても本領を守れたのは鍋島と島津などごくわずかになった。
中央政権による干渉とそれに対する不満
戦国大名たちに対する秀吉の干渉は続いた。
諸大名の領国の内部に1万石程度の蔵入地(直轄地)が設定され、これが豊臣政権にとってのその地方での拠点となった。さらに、秀吉は片倉小十郎(伊達家)・直江兼続(上杉家)・鍋島直茂(龍造寺家)・伊集院忠棟(島津家)といった各大名を補佐する優秀な重臣に接近し、知行を直接与えたり、「この武将にこれだけの知行を与えるように」と大名に指示したりした。その理由としては、外様の大大名から腹心を切り離すことで勢力の分断を狙い、優れた武将を取り込もうとしていたのだと考えられている。急激に成り上がったために直臣が少ない豊臣家の台所事情も関係していただろう。
これらは露骨な内政干渉であり、もともとは独立した勢力であった諸大名は、腹にすえかねたはずだ。実際には起きなかったが、何らかの大規模な反乱が起きてもおかしくはなかっただろう。
秀吉が石田三成を始めとする五奉行によって中央集権的な政治体制の確立を目指す一方で、徳川家康を始めとする有力大名を五大老として政権に組み込んで自分の死後の政権運営を託したことにも、このような「諸大名を統制しなくてはならないが、一方で彼らの意志を完全に無視するわけにはいかない」という、まだ戦国の乱世が終わりきっていない、微妙な時代の空気が背景としてあったのではないか。
それでも、それぞれ独自勢力として活動していた戦国大名たちが、中央政権の支配下に入り、多種多様な干渉を受けつつ生き残りを図るようになったことは間違いない。このような形で、戦国大名たちはパラダイムシフト――近世大名への変化を果たしていくのである。