行幸橋は坪井川にかかる、熊本城の入口にかけられた橋です。
加藤清正公像のすぐそばにあります。
もともとこのあたりには木製の「下馬橋(げばばし)」という橋がかかっていましたが、1902年(明治35年)に明治天皇が行幸された際に下馬橋を撤去して、新下馬橋がかけられました。
(のちに「行幸橋」と改められたそうです)
行幸橋(みゆきばし)
明治三十五年(一九〇二)、明治天皇が熊本に二度目の行幸をされた。当時、下馬橋(げばばし)から城内に入る南坂(みなみざか)は傾斜が急で、曲折も多かったので陸軍は、この坂を改修して傾斜をゆるやかにし、末端の坪井川(つぼいがわ)に、新橋をかけて天皇の御馬車が通れるようにした。このとき旧来の下馬橋は撤去され、新しい橋が新下馬橋と呼ばれたが間もなく天皇の行幸を記念して、この橋を行幸橋、新坂を行幸坂と名づけた。行幸橋から眺めた花見時の景色は、古くから熊本の人々に親しまれている。熊本市Miyukibashi Bridge
In 1902, the Emperor Meiji made his second visit to Kumamoto. This bridge and the nearby Shinzaka slope were renamed as Miyukibashi and Miyukizaka to commemorate the visit.Kumamoto City
行幸橋を渡ると、ゆるやかな坂道になっています。
この坂は江戸時代には「南坂」と呼ばれ、南大手門へ向かう藩士の登城路でした。こちらも明治天皇が行幸された際に整備されて「行幸坂」と呼ぶようになりました。
南坂(みなみざか)
この坂は江戸時代は南坂と呼ばれ、飯田丸下の備前堀中ほどから南大手門へ向かう比較的急な坂で、山崎(やまさき)や高田原(こうだばる)等の城下町に住む藩士の登城路であった。
この石垣の上の曲輪[城の周りに築いた堀、石垣、塀などで構成する区画]は細川氏入国(一六三二年)後、奉行所が置かれたことから奉行丸(ぶぎょうまる)と呼ばれている。奉行所は御奉行所(おんぶぎょうしょ)、御勘定方(おんかんじょうがた)、小物成(こものなり)、御郡代(おんぐんだい)の四部門からなり、多くの藩士が公務を行っていた。
奉行丸に熊本城復元整備計画の一環として、平成十五年までに「未申櫓(ひつじさるやぐら)」「元太鼓櫓(もとたいこやぐら)」と付属の塀を復元した。また、かつて「井樋方櫓(いびかたやぐら)」「御客方櫓(おんきゃくかたやぐら)」があった場所は、遺構表示と木柵で表示している。
明治三十五年に明治天皇が行幸された折、現在の車道を整備し、行幸坂(みゆきざか)と呼ぶようになった。熊本市Minamizaka Slope
During the Edo period, this steep slope leading from Bizen moat near the Iidamaru grounds to the Minami-ote gate of the castle used to be called Minamizaka (south slope). Many retainers living in the castle town entered the castle via this slope.Kumamoto City