熊本城
熊本城

[熊本県][肥後] 熊本県熊本市中央区本丸1-1


  • 平均評価:★★★★☆ 4.14(7位)
  • 見学時間:1時間58分(2位)
  • 攻城人数:3640(21位)

行幸橋と行幸坂(南坂)

行幸橋は坪井川にかかる、熊本城の入口にかけられた橋です。
加藤清正公像のすぐそばにあります。

もともとこのあたりには木製の「下馬橋(げばばし)」という橋がかかっていましたが、1902年(明治35年)に明治天皇が行幸された際に下馬橋を撤去して、新下馬橋がかけられました。
(のちに「行幸橋」と改められたそうです)

行幸橋(みゆきばし)
 明治三十五年(一九〇二)、明治天皇が熊本に二度目の行幸をされた。当時、下馬橋(げばばし)から城内に入る南坂(みなみざか)は傾斜が急で、曲折も多かったので陸軍は、この坂を改修して傾斜をゆるやかにし、末端の坪井川(つぼいがわ)に、新橋をかけて天皇の御馬車が通れるようにした。このとき旧来の下馬橋は撤去され、新しい橋が新下馬橋と呼ばれたが間もなく天皇の行幸を記念して、この橋を行幸橋、新坂を行幸坂と名づけた。行幸橋から眺めた花見時の景色は、古くから熊本の人々に親しまれている。熊本市
Miyukibashi Bridge
In 1902, the Emperor Meiji made his second visit to Kumamoto. This bridge and the nearby Shinzaka slope were renamed as Miyukibashi and Miyukizaka to commemorate the visit.Kumamoto City

行幸橋を渡ると、ゆるやかな坂道になっています。
この坂は江戸時代には「南坂」と呼ばれ、南大手門へ向かう藩士の登城路でした。こちらも明治天皇が行幸された際に整備されて「行幸坂」と呼ぶようになりました。

南坂(みなみざか)
 この坂は江戸時代は南坂と呼ばれ、飯田丸下の備前堀中ほどから南大手門へ向かう比較的急な坂で、山崎(やまさき)や高田原(こうだばる)等の城下町に住む藩士の登城路であった。
 この石垣の上の曲輪[城の周りに築いた堀、石垣、塀などで構成する区画]は細川氏入国(一六三二年)後、奉行所が置かれたことから奉行丸(ぶぎょうまる)と呼ばれている。奉行所は御奉行所(おんぶぎょうしょ)、御勘定方(おんかんじょうがた)、小物成(こものなり)、御郡代(おんぐんだい)の四部門からなり、多くの藩士が公務を行っていた。
 奉行丸に熊本城復元整備計画の一環として、平成十五年までに「未申櫓(ひつじさるやぐら)」「元太鼓櫓(もとたいこやぐら)」と付属の塀を復元した。また、かつて「井樋方櫓(いびかたやぐら)」「御客方櫓(おんきゃくかたやぐら)」があった場所は、遺構表示と木柵で表示している。
 明治三十五年に明治天皇が行幸された折、現在の車道を整備し、行幸坂(みゆきざか)と呼ぶようになった。熊本市
Minamizaka Slope
During the Edo period, this steep slope leading from Bizen moat near the Iidamaru grounds to the Minami-ote gate of the castle used to be called Minamizaka (south slope). Many retainers living in the castle town entered the castle via this slope.Kumamoto City
   

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図説 近世城郭の作事 櫓・城門編

三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。

まーちゃんさん)

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