株式会社城野印刷所によって作成された熊本城ガイドブック「熊本城ガイドブック47号-夏-災害特別号」です。
はじめに
加藤清正公が約400年前に7年の歳月をかけ築城した熊本城は、西南戦争の際に天守と多くの櫓群は焼失したものの、難攻不落の堅牢な造りを天下に知らしめました。しかし熊本県を震源とする最大震度7の激震を二度受けた熊本城は、石垣の崩落などが64カ所、建造物では北十八間櫓と東十八間櫓は石垣ごと崩れ、国指定重要文化財13棟全てが破損してしまいました。建物内部の被害は余震が続くため、調査が出来ず、被害の全容が判るのはこれからだと思われます。
震災後、全国各地のお城でも募金やチャリティーイベントなどが行われ、支援や応援の輪が日増しに広がっていることを感じます。今では被災した熊本城を一目見ようと県外からも多くの人が訪れ、心を痛めながらも優しく見守り、関心をお寄せいただいていることに心より感謝いたします。益城町をはじめとして熊本、大分県とも甚大な被害を受けましたが、ここで立ち止まらず復興への一歩を踏み出さなければなりません。被災者への支援やインフラ整備を最優先しつつ、復興へのシンボルとして「熊本城再建」が観光県熊本の復活へとつながると感じます。
甦れ優美な武者返し
天下に名を馳せた熊本城の石垣は「清正流石垣」。下から緩やかに、上に向かうに従い天端では絶壁になる独特の弧を描く扇の勾配は、武者返しの別名で呼ばれています。加藤清正が近江国から率いてきた石工集団「穴太(あのう)衆」の後藤家伝来「石垣秘伝之書」には、高さ十間から二十五間までの石垣の高さごとに反りの角度を数種類に分けていたと記されています。
震災以降飯田丸五階櫓や戌亥櫓は隅石で保っており、隅石の重要性が判ります。隅石は"城破(しろわ)り"(廃城)の作法からもうかがわれ、城の破却の際、隅石が取り除かれたり、象徴的に一部を外したりと、それだけで"武装解除"であるとみなされていました。
以下は古いガイドブックのページですが、参考になる情報なので掲載しておきます。
熊本城のあらまし
54万石の城下町・熊本のシンボルであり、日本三名城の一つと数えられる熊本城。現在の城が建つ茶臼山には、中世にすでに千葉城と隈本城があり、出田氏、鹿子木氏、城氏、佐々氏と城主を替えた後、天正16(1588)年に加藤清正を迎えました。清正は、優れた土木治水の技術を発揮し、7年をかけて熊本城を築城。慶長12(1607)年のことです。城郭の周囲は5.3km、面積98万m2。城内に大天守と小天守、49の櫓、18の櫓門、29の城門を備えた堂々たる威容を誇り、加藤家の改易後は、約240年間にわたって細川家の居城となりました。時を経て、明治10(1877)年の西南戦争の際には天守閣などが焼失したものの、52日間の籠城に耐え、難攻不落の堅固な造りを天下に知らしめたのです。
昭和30(1955)年には、熊本城跡が国の特別史跡に指定。昭和35(1960)年、大・小天守閣の復元以降、平成20年春、本丸御殿が落成いたしました。
株式会社エヌユーエス九州によって作成されたてくてくマップ熊本城界隈も提供いただきました。