高橋公園の横井小楠たちの銅像のそばには谷干城(たにたてき/かんじょう)の銅像もあります。
谷干城は幕末から明治にかけて活躍した人物で、1877年(明治10年)の西南戦争の際には52日にわたって西郷隆盛が率いる軍勢の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献しました。
現在の谷干城の銅像は二代目で、初代は1937年(昭和12年)に西南戦争60年を記念して建てられましたが、第二次世界大戦中に金属供出されてしまいました。
現在のものは1969年(昭和44年)に明治100年を記念して、以前と同じ型を使って再建されたものです。当初は熊本城内の天守南側にありましたが、熊本城本丸御殿の復元にともなって高橋公園に移設されました。
谷 干城(たに たてき)
天保八年(一八三七)土佐藩士の家に生まれ、戊辰戦争に参戦して功績があった。明治五年(一八七二)陸軍少将となり、六年からしばらく熊本鎮台司令長官となり、神風連の変後、再び熊本鎮台司令長官となり、西南戦争に際しては籠城策をとり、五十二日間にわたる薩軍の猛攻に堪えて有名を馳せた。のち貴族院議員となり、同四十四年(一九一一)に没した。
この銅像は、昭和十二年(一九三七)に西南戦争六十年を記念して建設されたが、第二次世界大戦中に金属供出され、昭和四十四年(一九六九)に明治百年を記念して再建された。朝倉文夫の作品である。TANI TATEKI
Tani Tateki was born into a samurai family of Tosa Province(Kochi Prefecture) in 1837. He first won recognition in the Boshin War and was promoted to major in 1872. The next year he served as
Commander of the Kumamoto Army Headquarters and was instrumental in quelling the Shinpuren Rebellion of feudal system supporters. During the Seinan Civil War(1877) he brilliantly held out for 52 days against a seige of Kumamoto Castle by the Satsuma Army. With his bravery and fame firmly established, he became a memeber of the house of Lords where he served until his death in 1911.
On the 60th anniversary of the Seinan Civil War(1937), a statue of Tani was erected, but during World War II it was melted down for its metal. The present statue, by Asakura Fumio, was made for the centennial commemoration of the Meiji Restoration(1969).