加藤清正が熊本城を築くまで、この地には隈本城がありました。
隈本城を築いたのは鹿子木親員で、豊臣秀吉の九州征伐のあとには佐々成政が入っています。
しかし1588年(天正16年)、成政は秀吉の指示に反して検地を強行し、肥後国人一揆を引き起こした罪に問われ、切腹を命じられました。
その後、肥後北半国19万5000石の領主となり隈本城に入ったのが加藤清正です。 清正は隈本城のあった一帯を拡張して築城し、「隈本」を「熊本」と改めました。その際に隈本城は熊本城の二の丸として組み入れられたそうです。
現在は石垣と堀だけが残っており、古城堀端公園(ふるしろほりばたこうえん)として整備されています。
「古城堀」と呼ばれています。
古城堀
熊本城は日本三名城の一つにも数えられ、約九十八万平方メートルもの広さを持つ豪壮雄大な城です。
明治十年の西南の役では薩軍の猛攻撃に耐え、その真価を発揮しましたが、その際天守閣を始め多くの櫓が失われました。そこで、文化庁と熊本市では本来の姿への復元を進めています。
この付近一帯は古城の堀の跡で、戦前の段山を削った土や昭和二十八年の大水害の際の排土で埋められたものです。そのため熊本市は、昭和五十四年度からこの地区の公有化を進めており、将来は浚渫して、旧態の堀に戻すことにしています。 熊本市
このあたりは住所も「古城町」となっています。
古城堀端公園から熊本第一高校の校門前にある橋の下を堀の跡が通っています。