百間石垣は長さ131m、高さ9mにおよぶ石垣です。
熊本城の北側防御を目的に飯田丸五階櫓でも知られる飯田覚兵衛が築いたといわれています。
ちなみに100間(184m)には届きませんが、二の丸御門跡の桝形の石垣を加えるとちょうど100間ほどになるそうです。
監物櫓のすぐそばに案内板があります。
百間石垣(ひゃっけんいしがき)
熊本城北側の重要な守りとして築かれた石垣で、加藤家重臣の飯田覚兵衛が築いたと言われている。熊本城二の丸の絵図によると、高さは約五間ほどで、長さ百一間になる。この長さから百間石垣と呼ばれるようになった。
言い伝えによると、ある年の正月、三東弥源太(さんとうやげんた)という若者が家老の長岡監物邸(ながおかけんもつてい)のしめ飾りを盗んで逃げるとき、「えーもさいさい」とばかりに、この高い石垣から後ろ向きに飛び降りたそうである。それ以来、熊本では思い切った事をするときの例えに「百間石垣後ろ飛び(ひゃっけんいしがきうしろとび)」という言葉が使われるようになった。熊本市Hyakken Stone Wall
Constructed under the supervision of Iida Kakubei, a high-ranking retainer of the Kato clan, this stone wall was a major defense of the northern castle grounds. According to contemporary drawings of the castle, the original wall was app. 10meters in height and 200meters in length. From this the wall got its name, Hyakken, which in the traditional measuring system equaled app. 200meters at that time.
An historical anecdote relates how one New Year's day a young man stole a decoration from the mansion of the chief retainer Nagaoka Kenmotsu. In his desperate desire to escape, the young man leaped from the wall backwards. Even now, people in Kumamoto refer to an Unexpected act of desperation as "a leap backwards from the Hyakken stone wall."
この百間石垣の前の道路は、熊本マラソンのコースにもなっています。