来年の大河ドラマ「麒麟がくる」に向けて、『丹波新聞』が精力的に明智光秀に関する記事を出しています。
今回は「八幡山城」についての記事(の後編)です。
「八幡山城」は江戸中期に柏原陣屋が築かれた、丹波市柏原町にあったとされる城址で、昭和50年代の調査で城址と認められ、その際に「八幡山城」という名前がついた城跡です。
記事の内容をざっくりまとめるとこうです。
- 京都・吉田神社の神官、吉田兼見による日記「兼見卿記」には、1579年(天正7年)10月の欄に、「加伊原(柏原)新城を普請中の光秀を見舞った」との記述がある。
- 京都府・大山崎町歴史資料館館長の福島克彦さんは、この「加伊原」という地名に着目し、「『加伊原新城』はこれまで同じ柏原町内にある金山城のことを指しているとされてきたが、郡境にある金山までを『加伊原』と呼んだのかという素朴な疑問がある。八幡神社境内に一時、光秀が築城した八幡山城のことだと考えられる。」とコメント。
ただここがほんとうに光秀による築城なのかというと疑問も残るようです。
- 加伊原新城が出てくるのは天正7年10月だが、波多野氏の居城・八上城はこの年の6月に、また赤井直正の黒井城は同年8月にすでに落城しており、一応の丹波平定は終わっているためここに新規築城する意図が不明。
(なお金山城は八上城と黒井城の連携を断つことを目的に、1578年(天正6年)に両城が見渡せる金山山頂に築城された)
また
1988年(昭和63)発行の「丹波の城」によると、「八幡山城は、荻野安芸守が足利氏に抗戦して築いた砦」とあり、室町時代に造られたという説もあるようだ。
とあるように光秀が丹波に侵入する以前から城があったとする説もあります。
丹波市教育委員会文化財課は「八幡山城については、『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』により曲輪や堀切の存在が確認されており、城郭遺構として周知されている。しかし、一次史料に八幡山城の記述がないため、明智光秀によって築かれた陣城であるというのは、伝承の域を出ない」との見解だ。
基本的に攻城団では自治体(おもに教育委員会)の見解を踏襲することにしていますが、こういう状況ですので先日公開した「明智光秀バッジ」に含めていません。
ただ城址としては今後の登録対象にしたいと思っていますし、今後光秀が築いたことが確定したらバッジの対象城にも追加しようと思います。