西尾市が整備を進めてきた西尾市歴史公園内に「二之丸丑寅櫓(うしとらやぐら)」と土塀が完成し、7月11日から一般公開が開始されました。
今回再建された二之丸丑寅櫓は江戸初期に建てられたものの明治期に天守などとともに取り壊されており、「正保城絵図」など江戸時代の絵図や資料をもとに専門家を交えて検討を重ね、完成させたとのことです。
木造三階建てで高さ約8.3m、石落としも設置されています。
さらに櫓から西側の天守台に向かって約52mの土塀も復元されました。とくに敵を攻撃しやすいよう外側に張りだした二か所の「屏風折れ」が見どころとなっています。
西尾市の石川さんから情報をいただいたので以下に掲載します。
西尾城二之丸丑寅櫓及び土塀の説明
西尾城の二之丸には天守と城主の住む御殿がありました。天守は本丸に建てられるのが一般的ですが、二之丸に建てられていたのが西尾城の特徴です。
丑寅櫓の建設工事
木造二階建て 高さ8.3m 南北7.2m 東西5.4m
工事費 159,500,000円(税込)
工期 令和元年6月4日から令和2年6月26日まで愛知県産のヒノキとスギを使用して木造で建設しました。
西尾城は明治5年に破却となり、天守や櫓などの建物は取り壊されました。古写真や指図などの資料は残っていませんでした。そのため城郭建築の第一人者で、大河ドラマ「麒麟がくる」の時代考証をされている広島大学名誉教授の三浦正幸氏に依頼して、西尾城の建物の大きさが書かれた『西尾城郭覚書』や幕府に提出した城絵図を元に復元考察を行い、できる限り史実に近い形での復元を目指しました。
復元考察に際して使用した資料は『西尾城郭覚書』、『参河国西尾城土居崩候覚』、『三河国西尾 内閣文庫蔵(正保城絵図)』、『二之丸居所之図』です。
外壁については、各種の城絵図の検討により黒い下見板張としました。軒丸瓦や軒平瓦の模様は発掘調査で出土した瓦をもとにデザインをしました。丑寅櫓
1階部分は『西尾城郭覚書』によると東西3間(5.4m)、南北4間(7.2m)で、床が張られておらず土間になっていました。入口は西側に設けられており、1階、2階部分は城内側の南と西側には窓は設けられていませんでした。1階と2階の中央に独立柱があり、梁を支えていました。
2階は1階と同じく東西3間(5.4m)、南北4間(7.2m)で、「二之丸居所之図」によると東側に出窓があり、石落としを兼ねていました。
2階へ上がる階段は敵の侵入を防ぐために蓋ができる構造に復元しました。
3階は、東西2間半(4.5m)、南北2間(3.6m)の大きさでした。
城内側の南と西側は窓の数が少なく作られていました。土塀
二之丸丑寅櫓から天守台までの約52mの土塀です。木造で控え柱を持つ高さ約2mの構造です。『三河国西尾 内閣文庫蔵(正保城絵図)』により2ケ所の折れを持つ屏風折れの土塀として建設しました。折れに対応して土手も張り出しています。屏風折れの土塀は全国でも珍しく、西尾城の特徴の一つです。土塀には2対1の割合で正方形の鉄砲狭間と長方形の矢狭間が作られていました。