先週のニュースですが、佐伯市教育委員会による調査で、佐伯城跡に全国的にも珍しい四段石垣が発見されたとのことです。
佐伯市教委は2日、市史跡の佐伯城跡で、全国的にも珍しい4段の階段状石垣が見つかったと発表した。城郭の石垣ではほとんど用いることはない治山や治水で使う技術を応用しており、同様の石垣では国内最大級とみられる。調査した佐賀大の宮武正登教授(歴史学)は「他に例がない。国史跡となる価値がある」と指摘した。
(中略)
市教委によると、「階段石垣」は山頂の本丸北側で確認した。高さ約13メートル、長さ約30メートル。大坂城などにも見られる「穴太(あのう)積み」の技法を用いる一方、階段状の水平部分を石で覆い、隅を丸く仕上げるなど治水技術を取り入れていた。佐伯藩の史料「御城修理絵図」で1734年に風雨で崩れた場所と一致しており、災害復旧で築いたと推測される。
佐伯市教育委員会に問い合わせて現地の写真をご提供いただきました。
今回発見された石垣は、佐伯文化会館からつづく登山道の途中にあるため、現在も見学することが可能です。
(ただし雨天時は足元が悪いので晴れた日の見学を推奨)
穴太積みの技法が用いられているとのことですが、戦国時代は高石垣を築く技術がなかったので、階段状に石垣を築いて高くする技法が用いられました。
戦国時代に築かれた羽柴秀吉時代の姫路城の石垣や、江戸時代初期に築かれた明石城の石垣などでも二段になって築かれた石垣をいまでも見ることができますが、四段の石垣は聞いたことがないかもしれません。
なお佐伯城を築いた毛利高政は豊臣秀吉の家臣として大坂城などの普請にかかわっているので、高度な築城技術(と穴太衆などの技術集団とのパイプ)があったのでしょうね。
(豊臣大坂城でも階段状の石垣は用いられていました)
また記事中にもあるように、今回発見された石垣は1734年(享保19年)の風雨で崩れた場所で、ようするに江戸中期に戦国時代から継承されてきた城郭石垣の技術と、治山治水の技術を融合させて、大規模な斜面復旧をおこなったということだそうです。
修理修復の際に最新の技術を取り入れることは現在でもおこなわれていますが、江戸時代でも同じようなことがおこなわれていたと考えると、すごい発見だなとあらためて実感します。