別名 虎伏城、竹垣城
和歌山城は徳川御三家のひとつで第8代将軍徳川吉宗、第14代将軍徳川家茂を輩出した紀州藩紀州徳川家の居城です。また姫路城、松山城と並んで日本三大連立式平山城のひとつでもあります。現在、本丸と二の丸が和歌山城公園となっており、岡口門と土塀は国の重要文化財に指定されています。また、平成18年(2006年)に復元された御橋廊下は、江戸時代には藩主と側近のものだけが通行できる橋でしたが、いまは自由に通行することができます。なお、『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』など多くのドラマの撮影が行われています。
和歌山城を訪問した3349人の報告によれば、平均見学時間は1時間44分、平均評価は3.90点となっています。
和歌山城は和歌山藩の藩庁です。
目次
和歌山城を攻城した団員が残してくださったコメント(クチコミ)です。じっさいに訪問した方の生の声なのでぜひ参考に。
和歌山城に関するデータ 情報の追加や修正
48.9 m
内郭:-- ha 外郭:-- ha
3重3階
23.42 m
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1585年(天正13年)に豊臣秀長が築城した際に天守があったかは不明だが『南紀徳川史』に天守の存在が記されている。1600年(慶長5年)に入城した浅野幸長のときも天守の存在は不明。その後、1619年(元和5年)に駿河から紀伊に入った徳川頼宣が建築した天守は、1846年(弘化3年)の落雷により焼失した。再建された天守は3重3階の連立式層塔型天守で1850年(嘉永3年)に落成、総工費は銀1616貫(約11億円)だったが、1945年(昭和20年)の空襲により焼失。現在の復元天守は1958年(昭和33年)10月に約1億円かけて再築されたもの。
豊臣秀長
着工 1585年(天正13年) 〜 竣工 1585年(天正13年)
1871年(明治4年)
浅野幸長、徳川頼宣
豊臣氏(100万石)、桑山氏(4万石)、浅野氏(37万6千石)、徳川氏(55万5千石)
岡口門、塀、庭園、石垣、堀
国の重要文化財(岡口門、続塀)、国史跡、国の名勝(西の丸庭園)、和歌山市文化財(追廻門)
天守、櫓、門、橋
更新日:2025/04/23 12:43:06
和歌山城の見所や歴史などを紹介します。
見学情報・施設案内 情報の追加や修正
12月29日〜12月31日
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和歌山城の見所は城メモをご覧ください
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早いもので、1月も終わり、2月となりました。
2月になっての初登城となりましたが、目的はわかやま歴史館歴史展示室の企画展「和歌山城の石垣発掘!」です。
企画展はどうしても小規模なものになるのですが、石垣推しの和歌山城なので、結構力が入っていました。
転用石は、他の城でも見かけますが、裏込めにまで五輪塔や石臼等を使っていたとは驚きです。
歴史展示室でふと和歌山市史跡地図を見て、頼宣の生母を祀った「養珠寺」と歴代藩主の正室の墓所がある「報恩寺」に目が留まりました。
よし、今日は「紀州徳川家縁の寺院めぐり」に行こう!
和歌山城の南の防備のために、寺院を集められた「寺町」にある「報恩寺」は、市内中心部にあるとは思えない広い寺院でした。その奥まった所に、初代頼宣の御簾中瑶林院(加藤清正娘 八十姫)の巨大な宝篋印塔と、光貞御簾中天真院(伏見宮照子女王)、吉宗御簾中寛徳院(伏見宮理子女王)の三基が並んでいました。他にも少し小ぶりの墓碑が両側に並んでいました。
歴代藩主の菩提寺「長保寺」は海南市の実家近くにあるので、何度も行きましたが、歴代藩主の墓碑より立派かも…。
そこから、和歌浦へ移動しました。
しかし「養珠寺」は見つからず、Google mapを見てみると、あれれ、ここは雑賀城の麓ではないですか!
以前、雑賀城攻城で見かけたお堂は「養珠寺」の妙見堂で、まさに養珠院を祀ったものと判明。「灯台下暗し」でした。
ちなみに、頼宣の母は「ようじゅいん」で、寺名は「ようしゅじ」と少しややこしいです。
今日は、地元でも知らなかった所を新たに知りました。ウレシイ!
(写真は報恩寺にある墓所の入り口の門です。)
(2025/02/04記入) すべての城活ノートを表示(4件)