和歌山城は安土桃山時代の豊臣秀長による築城から、江戸時代を経て何度も改修がつづけられたため、各所に異なる時代の石垣を見ることができます。
とくに秀長から浅野幸長にかけての時代の石垣には刻印された石垣石が数多く見られ、調査によれば、約170種類の模様が、2100個以上の石に確認されています。
さまざまな模様の石垣を間近で見られます。
なお、石垣に使用されている大半の石は和泉砂石です。
刻印が目立つ場所にはこのような案内板があります。
(これは発見された刻印の約4割が集中しているとされる新裏坂にある案内板です)
和歌山城石垣の刻印について
和歌山城の石垣のうち、2110個に刻印(こくいん)があることが分かっています。この新裏坂周辺で、坂の西方に続く石垣に854個と約4割が集中しています。
刻印のデザインは多種多様で40種類以上が確認されており、家紋やその省略文字であったり、方位や日付、人名と考えられるものもあります。また刻印のある場所は石の正面だけでなく、側面や上下とあらゆる面にわたっていることが確認されています。
石垣の刻印は、全国的には慶長(1596~1615)から寛永(1624~1644)期に築かれたものに多く見られますが、何のために刻印されたかについては、石材所有者の表示、石質チェック、鬼門除けなど呪術的使用など諸説が有り、はっきりとは分かっていません。
和歌山城研究家として知られる故松田茂樹氏は、刻印のある石垣が和泉砂岩(いずみさがん)に限られ、浅野家が城主だった時代(1600~1619)に修築された石垣にしか使われていないことなどから、浅野家の家臣が主家の城普請に協力したしるしとして刻印したと見ておられる。