和歌山城は豊臣秀吉の弟である豊臣秀長(羽柴秀長)によって1585年(天正13年)に築かれましたが、このときに天守があったかは不明です。ただし『南紀徳川史』には天守の存在が記されているそうなので、小規模な天守はあったのかもしれません。
なお、この地が「和歌山」と改められたのはこのときで、普請奉行は藤堂高虎が担当しています。
1600年(慶長5年)、関ケ原の戦いのあとに入城した浅野幸長のときも天守の存在は不明ですが、1605年(慶長10年)頃に下見板張りの天守が建てられたという説があります。
天守の存在がわかっているのは、1619年(元和5年)、広島藩に加増転封となった浅野氏に代わって徳川家康の十男・徳川頼宣が駿河から入城し、御三家のひとつ、紀州徳川家(55万5千石)が成立したあとのことです。
頼宣は兄である2代将軍・徳川秀忠より銀5千貫を受領し、これを元手に1621年(元和7年)より城の改修と城下町の拡張を開始しましたが、この改修があまりにも大規模であったため、幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどだったそうです。
頼宣が建築した天守はその後、1846年(弘化3年)の落雷により焼失しています。この火事では御殿をのぞく本丸の主要建造物が全焼したそうです。
当時の武家諸法度では天守再建は禁止されていましたが、御三家という家格により特別に再建が許可され、1850年(嘉永3年)に3重3階の連立式層塔型天守が、総工費は銀1616貫(約11億円)で再建されました。
なお、このときは天守を5重にする案も出され、天守雛形(木組み模型)と図面まで作成されたそうですが、幕府への遠慮と財政難のため、取り止めになったそうです。
(ただし外観は白漆喰総塗籠めになっています)
この天守は明治を迎え廃城となってからも現存し、1935年(昭和10年)には当時の国宝(旧国宝)にも指定されていましたが、1945年(昭和20年)7月9日の和歌山大空襲により焼失しました。
現在の天守は戦災後の1958年(昭和33年)10月に鉄筋コンクリートで再建されたもので、東京工業大学名誉教授・藤岡通夫の指示を受けて、約1億円かけて外観復元されました。
天守内はビデオ上映コーナーのほか、徳川家ゆかりの品が多数展示されています。
最上階からは和歌山市街が見渡せます。
和歌山城の天守は大天守と小天守が連結式に建てられ、さらに天守群と2棟の櫓群が渡櫓によって連ねられた連立式と呼ばれるもので、姫路城、松山城と並んで日本三大連立式平山城のひとつに数えられています。
天守曲輪は菱形にちかい平面をしており、内側の面積は2,640m2あります。
天守閣
和歌山城天守閣は、大天守、小天守、乾櫓(いぬいやぐら)、二の門櫓、楠門を多聞(たもん)によって連結させた連立式天守閣である。
各層の屋根には唐破風(からはふ)、千鳥破風(ちどりはふ)を交互に配し、上層階には物見のための高欄(こうらん)をめぐらし、大天守の隅には石落としを設けるなど、江戸初期頃の様式を残している。
とくに、和歌山城天守閣の特徴は、ひし形の敷地に左右され、乾櫓(北西)と大天守(南東)が張り出し、城下の北東と南西からの姿に雄大さを増すように工夫されている。
現在の天守閣は、昭和二十年七月に戦災で焼失した天守閣(国宝)を、昭和三十三年十月に鉄筋コンクリート造で復元したものである。
再建年月日 昭和三十三年十月一日
天守台面積 二、六四〇平方メートル
大天守閣高 二三、四二メートル(海抜七二、三二メートル)