豊臣秀吉が最晩年に築いたとされる「京都新城」跡(現在の仙洞御所)から本丸を囲う石垣と堀の遺構が見つかりました。
自然石を積み上げて築かれていること、豊臣家の城に特徴的な金箔(きんぱく)瓦も出土したことなどから、京都市埋蔵文化財研究所は京都新城の遺構と発表しています。
今回の発掘調査は消火設備工事に伴い、昨年11月からおこなわれたもので、確認された石垣の長さは南北に約8m、高さは1m〜1.6mで、埋蔵文化財研究所の発表によれば当時の高さは2.4mほどだったと考えられるそうです。
通常は現地説明会が開催されるのですが、現在の状況を鑑みて一般向けの現地説明会はおこなわれません。また石垣は埋め戻されて地中で保存されるとのことです。
ただし埋蔵文化財研究所のサイトで報道発表資料(PDF)をダウンロードできるようになっています。
京都新城についての補足
「京都新城」という仮称のような名前の通り、この城は名前すら明らかでなく(当時の資料は『太閤御屋敷』などとして登場)、場所が場所だけにこれまでも十分な発掘調査がおこなわれていなかったことから、幻の城とされてきました。
ちょっと厳重な防御施設を持った屋敷クラスなのか、あるいは聚楽第に匹敵する本格的な城郭だったのか、その規模さえ謎だったのですが、今回の発見により後者の可能性が高いことがわかりました。
この城は秀頼が元服する際に利用されましたが、秀吉の死後は正室のねね(北政所=高台院)が大坂城から移り住んでいました。
その後、徳川家康と石田三成らの関係が悪化すると、戦乱に巻き込まれることを避けるために(中立の立場を取るために)城郭として軍事利用できないよう、石垣の上部が破壊されたとみられています。
さらに1627年(寛永4年)に後水尾天皇の隠居所として仙洞御所を造営する際に、堀は完全に埋められ、更地にされたと考えられますが、地中から当時の堀や石垣が見つかるのは駿府城の調査状況と同じですね。
なお西本願寺にある飛雲閣は京都新城から移築されたとする説があります。
聚楽第跡、京都新城跡、二条城の位置関係はこのようになっています。