高山右近が築いた高槻城跡に西日本では最古とみられる障子堀が見つかったそうです。
大阪府高槻市の高槻城跡で、キリシタン大名として知られる高山右近が城主を務めた戦国時代末期に掘られたとみられる堀跡が見つかり、市教委が30日、発表した。底に侵入者の動きを封じる仕掛けを施した「障子堀(しょうじぼり)」で、西日本では最古級の例。「築城の名手」と呼ばれた右近の姿に迫る発見という。
見つかったのは江戸時代の二の丸跡にあたる城跡公園野球場跡地です。
幅約16m、深さ約4mの堀跡の底に広さ2~9.7m2、深さ20cm~1mの不規則な方形の穴が掘り込まれ、さらに掘った土を砕いて泥にして敷き詰めていたとか。
高槻城京と大坂を結ぶ交通の要衝であったことから、右近が船上城に移ったあとは秀吉の直轄地となり、さらに「関ヶ原の戦い」後は徳川の直轄地となり、「大坂の陣」では補給基地として活用されました。
その後、1617年(元和3年)に城主となった土岐定義のときに改修され、さらに寛永年間にも岡部氏による改修がおこなわれています。今回の発掘調査で堀の中から「元和三年六月 鶴田左平」と墨書された石材が見つかったそうですから、おそらくは土岐氏による改修時に埋められたのだと思います。
(なおこの高槻城の改修も、明石城や尼崎城の築城と同様、西国大名への押さえとしておこなわれました)
障子堀といえば北条氏だけど
一般に「障子堀」というと山中城に代表されるように北条氏の「十八番(おはこ)」のイメージが強いですが、中井先生によれば北条氏の障子堀とは発想が異なるそうです。
城郭史に詳しい滋賀県立大の中井均教授(考古学)は「高さ数メートルの畝を整然と設けて敵の移動を封じた北条氏の障子堀とは発想が違う。障子堀という技術の出現ルートが北条氏だけではなかった可能性を考える必要が出てきた」と指摘。高槻市立歴史館の森田克行・特別館長(考古学)は「織田信長が築いた旧二条城跡(京都市上京区)の堀にも似た畝があり、右近が信長の配下だった時期にその影響を受けて高槻城にも取り入れたのでは。そうした実績から築城の名手となっていったのだろう」と話す。
たしかに堀底に瓶を沈めたり、逆茂木のようなもので進行を邪魔する工夫はあちこちで見られるので、水をはる前に段差をつくったり、泥や石で歩きにくくすることは十分考えられますよね。
なんでも障子堀や胴木を使った石垣の原型は信長が1569年(永禄12年)に築いた旧二条城跡で見つかっているそうですが、右近が信長に仕えたのは1578年(天正6年)なので、旧二条城の築城には携わっていません。
そもそも右近以外が自分の城に取り入れていないのはなぜなのかがよくわからなかったです。
現地説明会は2月2日の10時からおこなわれます(小雨決行)。
当日の様子
参加された団員が写真をアップしてくれてますね。