堀底からは、遺物がほとんど出てこなかったとのこと。戦国時代の緊張感の中、堀のメンテも頻繁に行われていたと考えられる。
堀の上部は石垣が積まれていた。現在は2段ぐらいしか残っていないが、往時はもっと積まれていたそう。
堀底からは、遺物がほとんど出てこなかったとのこと。戦国時代の緊張感の中、堀のメンテも頻繁に行われていたと考えられる。
見学順路から堀底までの高低差は約6m。
後方の白い建物(大阪府立槻の木高校)の場所が本丸跡。本丸防衛のための重要な堀であったと考えられる。
底を泥で覆って、躓かせたり、深みにはめ込んで敵の動きを阻害するためのものだったそうです。
手前から2列目右側は、深さ1mほどあるそう。 1mの泥に浸かってしまったら、恐怖ですね。
江戸時代の井戸跡だそうです。
もともとあった神社をジュストが破壊し教会へ。また、その教会が破壊され、現在は神社となっています。 周辺にある神社の解説板には、天主教会堂跡地であることは触れられていません。
教会近くの現代劇場あたりが高槻セミナリヨのあった場所らしいです。
高槻教会のジュスト像
高槻商工会議所には教会跡の石碑がありますが、ここは「キリシタン墓地」があった場所。 野見神社に遠慮しているのかもしれないが、史実として正しく伝えていくことのほうが重要ではなかろうか。
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