「石垣の博物館」と呼ばれる金沢城の中でも東の丸にある石垣はもっとも古い「野面積み」の技法が使われています。
前田利家は穴太出身の穴太源助らを召抱えたそうですから、このあたりの石垣は穴太衆積みの石垣なのでしょうね。
もともと金沢城の場所には金沢御坊(尾山御坊)があったわけですが、織田信長が加賀を攻め取った際に、金沢御坊は北陸方面軍の司令官である柴田勝家の家臣、佐久間盛政が占拠し、土塁や堀などを改修しました。
賤ヶ岳合戦後、この地には利家が入城して近世的な城郭に発展させたわけですが、まさにこの東の丸の石垣は佐久間盛政が築いたものを改修して築き直したものだといわれています。
ボランティアガイドの方が案内してくれます。
ボランティアガイドは石川門を入ったところにある休憩所でお願いすることができるようです。
東ノ丸北面石垣(ひがしのまるきためんいしがき)
文禄元年(1592年)、利家は、急ごしらえの平山城であった金沢城の石垣改修にのりだします。この石垣は、城内で最も古い技法が用いられており、金沢城の初期の姿を伝える数少ない貴重なものです。自然石や粗割り(あらわり)しただけの石を緩い勾配で積み上げた「野面積み(のづらづみ)」になっています。
近くに寄って、利家が城に託した気持ちに思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。
創建 文禄(1592〜1595)頃
改修 一部改修の跡が見られるが時期は不明。
現状 創建時の姿がよく残っている。