玉泉院丸庭園は、3代藩主である前田利常が1634年(寛永11年)に作庭を始め、廃藩時まで城内玉泉院丸に存在していた庭園です。
玉泉院丸の名前は、異母兄であり2代藩主でもある前田利長の正室・永姫(織田信長の四女)が、1614年(慶長19年)に利長が隠居先の越中高岡で死去したのちに金沢に戻って剃髪し、玉泉院と号し、この地に屋敷をかまえていたことに由来しています。
古くは「西の丸」と呼ばれ、前田家の重臣屋敷があったと伝えられています。
玉泉院丸庭園は池泉回遊式の大名庭園で、庭園の特色としては、二の丸を経た辰巳用水を利用した滝を水源のひとつとする、池底から周囲の石垣最上段までの高低差が22mもある構造であったと考えられます。
石垣の中に滝を組み込んだ色紙短冊積石垣をはじめとした意匠性の高い石垣群が配され、それらが融合した優れた造形美をなしており、石垣を庭の構成要素とする立体的な造形はほかに類を見ないものです。
段落ちの滝(だんおちのたき)
発掘調査により、斜面を階段状に流れ落ちる落差約7mの4段の滝跡が発見されました。江戸時代には、二の丸を通ってきた辰巳用水の水が、色紙短冊積(しきしたんざくづみ)石垣下部前面の滝壺から、地中の水路を経てこの滝の水源になっていたと考えられます。
明治期の庭園廃絶に伴い、滝を構成する石の一部が抜き取られていましたが、今回の整備では、発掘された遺構を埋め戻し、その上に、残されていた遺構と同様の寸法形状の石を置き、また、抜き取られた石の痕跡等をもとに新たに石を補充して滝を再現しています。
坪野(つぼの)石を使った石垣
この石垣は、「戸室石」を用いる金沢城の石垣の中で、唯一黒色の「坪野石」を混在させた珍しい石垣です。石垣の外形はもとより石の色味にも変化をつけ、庭園ならではの見て楽しむ石垣となっています。
色紙短冊積石垣(しきしたんざくづみいしがき)
色紙(方形)や短冊(縦長方形)状の石やV字型の石樋が組み込まれた、金沢城内で最も意匠的な石垣です。石垣の下部を約2m埋め戻したため、現在見ることはできませんが、発掘調査では滝壺の石組みが発見され、V字型の石樋から落水する落差9mに及ぶ石垣の滝だったことが判明しています。
この庭園は廃藩とともに廃絶され、かつての庭園の面影は失われていましたが、2015年(平成27年)3月に復元されました。
玉泉院丸庭園
2代藩主前田利長(としなが)の正室玉泉院(ぎょくせんいん)がこの場所に屋敷を構えたことから、玉泉院丸と呼ばれるようになりました。3代藩主前田利常(としつね)が、寛永11年(1634)に京都から庭師を招いて庭園を造営したことに始まり、5代綱紀(つなのり)、13代斉泰(なりやす)の時代に改修された記録が残されています。
庭園は、明治期に廃絶されていましたが、平成20年から24年までの5年間の発掘調査や、江戸時代末期の詳細な絵図等をもとに、確認された遺構の上に約2mの盛土をして庭園を再現しています。
大きな池に大小3つの中島を浮かべ、周囲を園路で結ぶ、典型的な池泉(ちせん)回遊式庭園です。
石垣を周囲の構成要素として取り入れ、また、発掘調査で確認された池底の遺構から石垣の最上部までの高低差が約22mもある、立体感に富む庭園であることが大きな特徴です。
整備工事は平成25年5月に着工、平成27年3月に完成しました。Gyokusen-inmaru Garden
The wife of the second feudal lord, Gyokusen-in, took up residence here, so this area has come to be known as Gyokusen-inmaru. The height from the bottom of the pond to the top of the stone wall is about 22 meters, giving the garden a distinctively three-dimensional feel.
また、玉泉院丸跡には「鼠多門(ねずみたもん)」などの城郭建築物の存在も確認されており、今後の復元に向けて、調査が継続されるそうです。