加賀藩主、前田家歴代の墓所がある前田家墓所は、野田山(のだやま)という金沢市の市街地からほど近い場所にある標高175mの山にあります。総面積は43万平方メートル、兼六園の約4倍の広さがある霊園地です。
金沢市文化スポーツ局文化財保護課によって作成された前田家墓所の公式パンフレットです。
前田家墓所の概要
前田家墓所は、金沢市の南東部、野田山丘陵にある野田山墓地ぼ最高所にあり、金沢城からみるとほぼ南、直線距離3.5kmのところに位置しています。標高は最も高いところで約180m、東西に約400m、南北に約350mを測り、面積は86,294.5m2を測ります。
墓所内には、江戸時代に加賀・能登・越中三ヶ国約100万石を領有した歴代藩主を中心に、藩主正室、生母、子女ら系84基の墳墓が造られています。藩主墓は土を方形に3段重ねたピラミッド状の特徴的な形(方形三段築造)をしており、初代前田利家墓で一辺が約19m、以降の藩主墓で一辺約16mを測り、高さも5m以上あります。3代藩主利常墓以降の藩主墓は溝を周囲に巡らせて墓城を形成しています。
江戸時代の墓所は仏式でしたが、前田家が明治7年に神式葬に転換したため、同10年に墓所も改められ、墳墓の正面に鳥居が建てられました。
個々の墳墓の大きさ、墓所全体の面積ともに全国でも最大級の規模であり、まさに加賀百万石の大名家墓所として堂々たる威容を誇っています。
藩主墓所の始まりは慶長4年(1599)に死去した利家の墳墓造営が契機となります。大坂において死去した利家は生前に遺言を残しており、野田山を自らの墳墓の地として指定しています。以降、歴代藩主の墳墓はこの地に造営され、近世大名家墓所として発展していきます。墓所は現在も祭祀行為が営まれており、まさに「生きた墓所」である点も大きな特徴といえます。
このような大規模な墓所を継続的に造営し続けることができた背景としては、前田家が天正11年(1583)の利家の金沢入府から廃藩置県まで、加賀100万石の大名家であったことが大きな理由の一つであるといえます。
前田家墓所は織田信長・豊臣秀吉の時代から現代に至るまでの墓所の変遷をたどることができるという特徴を持ち、その規模の大きさと独特の墳墓形態も含め、日本を代表する大名家墓所の一つとして極めて高い文化的価値を有しています。加えて、我が国の大名家墓所が持つ多様性を如実に物語るものであるとも評価されました。このことから、高岡市の前田利長墓所とともに平成21年2月12日に国の史跡に指定されました。