上田城の南側は築城当時、千曲川の分流である尼ヶ淵(あまがふち)に面していました。
西櫓の近くには現在も河岸段丘上に築かれたことがよくわかる段丘崖(だんきゅうがい)が残っており、案内板も設置されています。
尼ヶ淵の崖(あまがふちのがけ)
上田城跡駐車場や芝生広場の一帯は、江戸時代には千曲川の分流が流れていた川原で、尼ヶ淵と呼ばれています。この川は上田城を守る天然の堀の役割を果たしていましたが、大水が出ると尼ヶ淵の崖を侵食(しんしょく)することがあり、まさに諸刃(もろは)の剣(つるぎ)でした。
崖に見られる地層は三つです。上から(1)上田泥流層(うえだでいりゅうそう)(火山が崩壊した砂礫(されき)が堆積したもの)、一番下には(3)染屋層(そめやそう)(川の作用で砂礫(されき)が堆積したもの)、そして、この二つの層の間には、(2)火砕流(かさいりゅう)に由来する粉じんが堆積しています。三つの地層の中では、(2)の層が一番軟らかくてもろいため、大水のたびに(2)の層を中心に崖が削られてしまい、崖が崩れて櫓に被害が及ぶ心配がありました。そのため、上田藩主・松平忠愛(まつだいらただざね)は享保十八年(一七三三)から石垣を築いて、崖を侵食から守りました。尼ヶ淵の石垣のほとんどは、このように崖を守るために造られたものです。
案内板にもあるように、尼ヶ淵側の石垣のほとんどは江戸時代中期の1732年(享保17年)に起きた「享保の洪水」後に築かれたもので、真田時代のものではありません。
(おそらく真田時代はほぼすべてが段丘崖のままだったのでしょう)
現在は上田城跡公園駐車場と尼ヶ淵広場(芝生広場)になっています。