上田城
上田城

[長野県][信濃] 長野県上田市二の丸


  • 平均評価:★★★★☆ 3.74(34位)
  • 見学時間:1時間14分(40位)
  • 攻城人数:4087(12位)

上田城の歴史

上田城は真田昌幸によって上田・小県(ちいさがた)地方制圧の拠点として築かれました。

提供:上田市商工観光部観光課

主家・武田氏の滅亡後、真田家は織田信長に臣従していましたが、その信長が「本能寺の変」によって敗死し、さらに関東方面軍の司令官だった滝川一益が「神流川の戦い(かんながわのたたかい)」で北条氏に敗れたため、昌幸は徳川・北条・上杉と頻繁に臣従と離反を繰り返して、領土防衛を画策します。

一益の敗退直後は北条氏に臣従していましたが、その後は徳川家康に乗りかえており、1583年(天正11年)に築城開始したときは徳川氏から支援をとりつけています。上田は徳川方にとって対上杉の最前線であったため、家康としても真田氏を重要視していたのでしょう。
そのため、敵対する北条氏、上杉氏からの妨害を受けながらの築城でした。

翌年に徳川氏は北条氏と和睦し、徳川が真田に対して上野・沼田領を明け渡すことを求めたことから両者の関係は悪化し、昌幸は徳川と決別することになります。
昌幸は今度は上杉景勝に臣従し、当初は北側(対上杉)に予定していた大手(防御正面)を、東側(対徳川)に変更しています。なお、このときに真田信繁(幸村)を上杉家に人質として送っています。

この数年間の真田氏を取り巻く状況が、その後二度にわたって徳川氏と繰り広げられた上田合戦の遠因となります。
また「関ケ原の戦い」後に、昌幸が築いた上田城は破却されたため、現在の上田城はその後に再建された仙石氏時代の上田城の遺構です。

上田城の歴史・沿革

西暦(和暦)出来事
1583年(天正11年)真田昌幸が築城に着手。
1585年(天正13年)上田城にて徳川軍(約7000)を迎え撃ち、撃退に成功する(第1次上田合戦)。
1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」の前哨戦として、徳川秀忠率いる東軍およそ3万8000を2000の兵で撃退した(第2次上田合戦)。
1601年(慶長6年)真田昌幸・信繁が九度山に配流となり、上田城は徳川軍により破却される。徳川側についた嫡男・信之が上田領を引き継ぎ、三の丸跡地に居館(陣屋)を構える。
1616年(元和2年)信之が城下に7か条の領内法度を出す。
1622年(元和8年)真田信之、松代に移封される。代わって小諸から仙石忠政が入封。
1626年(寛永3年)仙石忠政により城の再建が始められたが、2年後の1628年(寛永5年)に忠政が死去したため城普請は中断された。以後、仙石氏三代のあとは松平氏が明治維新まで城主をつとめたが、本格的な再建は行おこなわれなかった。
1706年(宝永3年)仙石政明、出石の松平忠周と所領交代となる。
1871年(明治4年)廃藩後、国に接収され東京鎮台第二分営の管理下となる。
1874年(明治7年)民間に払い下げられ、廃城。
1878年(明治11年)櫓2基が太郎山麓にあった上田遊郭に移築される。
1929年(昭和4年)西櫓を徴古館(博物館)として一般公開。
1934年(昭和9年)本丸と二の丸が国の史跡に指定される。
1942年(昭和17年)上田城址保存会により櫓2基が買い戻される。
1949年(昭和24年)南櫓、北櫓が落成(元の位置と同じかは不明)
1959年(昭和34年)本丸の櫓3基(西櫓、南北櫓)が県宝に指定される。
1981年(昭和56年)櫓3基の修復工事開始。二の丸堀跡にけやき並木遊歩道が完成。
1987年(昭和62年)櫓3基の修復工事完了。
1994年(平成6年)本丸東虎口櫓門を復元。
   

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図説 近世城郭の作事 櫓・城門編

三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。

まーちゃんさん)

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