聚楽城は関白になった豊臣秀吉によって、平安京大内裏(平安宮)跡に建てられた政庁兼邸宅です。一般には「聚楽第」と呼ばれることが多いです。秀吉は関白職を甥の秀次に譲った際に聚楽第も譲り渡していますが、実子である秀頼が生まれると、いわゆる「秀次事件」によって秀次を高野山に追放し切腹させ、聚楽第を破却しました。完成からわずか8年後のことです。聚楽第の建造物の多くは伏見城(指月伏見城)へ移築されたとされています。また、西本願寺の飛雲閣など聚楽第から移築されたと伝わる建造物も少なくありませんが、いずれも詳細は不明です。いまのところ聚楽第の遺構と認められている建造物は唯一、大徳寺の唐門だけです。現在は石碑が残るくらいですが、跡地を歩くとその規模の大きさを実感することができます。跡地には黒田官兵衛(孝高)や上杉景勝、千利休などの屋敷跡を示す石碑が建てられています。
目次
聚楽第を攻城した団員が残してくださったクチコミ(レビュー)です。じっさいに訪問した方の生の声なのでぜひ参考に。
項目 | データ |
---|---|
曲輪構成 | |
縄張形態 | 平城 |
標高(比高) | 53.7 m( -- ) |
城郭規模 | 内郭:-- 外郭:-- |
天守縄張、天守形式 | 望楼型 |
天守の階数 | 3重3階 |
天守の種類 | 非現存天守 |
天守の高さ | |
天守台石垣の高さ | |
天守の広さ(延床面積) | |
天守メモ | 豊臣秀吉によって築かれた聚楽城はいったんは豊臣秀次に譲られたものの、秀頼が生まれたことにより両者の関係が悪化し、1595年(文禄4年)に破却された。その際、建造物の多くは伏見城内へ移築されたとされるが、詳細は不明。天守については3重説だけでなく、4重説や5重説もある。 |
築城主 | 豊臣秀吉 |
築城開始・完了年 | 着工 1582年(天正14年) 〜 竣工 1583年(天正15年) |
廃城年 | 1595年(文禄4年) |
主な改修者 | |
主な城主 | |
遺構 | |
指定文化財 | |
復元状況 |
更新日:2023/09/23 11:42:49
聚楽第には「攻城団コラボチラシ」「御城印」があります。入手場所など詳しくは城メモをご覧ください。
聚楽第の見所や歴史などを紹介します。
項目 | データ |
---|---|
アクセス(電車) |
|
アクセス(クルマ) |
|
駐車場 |
|
じっさいに訪問した方の正確な情報をお待ちしています。
城メモと重複するスポットは表示していません。
あなたが泊まったホテルのレビューをお願いします!(レビューはホテルの詳細ページから投稿できます)
聚楽第について参考になると思われるインターネット上の情報へのリンクです。すべて別ウィンドウが開いて表示されます。
訪問レポートなど、これまで攻城団に公開された関連記事の一覧です。
聚楽第では過去に以下のようなイベントが開催されたり、ニュースが紹介されました(1年以内の情報だけ表示しています)。
攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。
(フォローするのに攻城団の登録は不要です)
攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック
いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する