京都市文化財保護課で制作された「京都歴史散策マップ~文化財と遺跡を歩く~ 8 御土居跡」です。
御土居跡
―史跡御土居と御土居跡を歩く―
1591年、文禄・慶長の役で朝鮮との戦を始める一年前、豊臣秀吉は大規模な京都改造事業に取り組んでいます。甥の秀次に関白職を譲って聚楽第を明け渡し、2〜4ヶ月のスピードで京都の町を囲む22.5キロにおよぶ御土居堀を構築しました。その他、寺町、寺之内、本願寺等の寺割りや短冊形の町割り等の事業も行いました。真竹等が植えられたという京都の美観にも貢献した御土居史跡をめぐり、秀吉の町づくりの痕跡をたどります。道路の起伏が当時の想像をかき立てます。
御土居跡に関する発掘調査
「本能寺の変」後、羽柴秀吉はいち早く行動をおこし、戦国の騒乱に終止符を打つことができました。秀吉は天正13(1585)年に関白職を受け、天正14年に豊臣の氏を賜り太政大臣に就任し政権を確立しました。同時に京都の改造を始め、まず、同年に聚楽第の造営を開始しその周辺に大名屋敷町を建設します。次に天正17年から御所の修復を行い、その周辺に公家屋敷町を配置します。天正18年には寺院を強制的に集中させ寺町・寺ノ内を形成すると共に、同年、平安時代からの正方形町割りを短冊形町割りとし土地の有効活用を図ります。最後に、天正19年、その周囲を取り囲むように御土居を築きました。この御土居は外敵の襲来に備える防塁と川の氾濫から街を守る堤防として、北は上賀茂から鷹ヶ峰、西は紙屋川から東寺の西辺、南は東寺南側の九条通、東は鴨川西側の河原町通まで、南北約8.5km、東西約3.5km、総延長約22.5kmにも及びます。その構造は外側に堀を巡らせ、内側に掘った土を盛り上げて台形状の土塁を築いたもので、土塁上には竹が植わっていたようです。現存するものから推測すると堀の幅は約20mで、深さは約4mとみられます。土塁基底部の幅は約20mで、頂上部の幅は約5m、高さは約5mありました。近衛信尹の「三藐院記」によると天正19年1月に着手され、同年閏1月のわずか2ヶ月で完成したようです。他の文献などにも5月以降には、工事の記載がなくなっていることから、早くて2ヶ月、遅くとも4ヶ月で完成しています。この大規模な土塁と堀が一日に150mずつ完成していったことになります。この工事に携わった人は「その数しれず」と吉田兼見の日記には記されています。この時期、京都では方広寺造営、寺院街建設(寺町や寺ノ内)あるいは御所の修築などの工事が並行的に行われており、京の町は人であふれかえっていたことでしょう。御土居は豊臣秀吉が作った頃には「土居堀」と呼ばれていましたが、江戸時代になると土塁、特に竹林のほうに注目が集まるようになり「御土居」と呼ばれるようになりました。御土居の内側を洛中、外側を洛外と呼び、「京の七口」に代表される出入口は、当初10ヶ所しかありませんでしたが、江戸時代の初めには40ヶ所まで増えていきます。
江戸時代に入ると、鴨川に新たな堤防ができ、東側の市街化が進み、土塁は取り壊されて行きますが、北・西・南側の土塁や堀は維持されました。近代になると京都ステーションの建設や郊外への宅地化が進み、第二次大戦後は土塁の大部分が消失してしまい、北西部を中心にわずかに残るだけとなりました。現在では9ヶ所が国の史跡に指定されています。
京都市内に現存する御土居跡の位置が記載されていますので、御土居跡を散策する際はこのマップを参考にすると便利です。
この歴史散策マップは現在、配布を終了しています。
2019年に改定された新シリーズ「遺跡見て歩きマップ」の「御土居跡(北半)」と「御土居跡(南半)」が京都市考古資料館でもらえます(英語版もあり)。
2019年に改定された新シリーズ「遺跡見て歩きマップ」の「御土居跡(北半)」と「御土居跡(南半)」が京都市考古資料館でもらえます(英語版もあり)。