京都市文化財保護課で制作された「京都歴史散策マップ~文化財と遺跡を歩く~ 20 聚楽第」です。
聚楽第の創建
1585年に関白となり天下の実権を握った豊臣秀吉は、平安宮の跡地に煌びやかな聚楽第を1587年に完成させ、京都を取り囲む22.5kmに及ぶ御土居を築きます。聚楽第は本丸・南二ノ丸・北ノ丸・西ノ丸の内郭と外堀に囲まれた外郭の二重構造となっていました。聚楽第を中心として大名屋敷が設けられ、市中は平安京の条坊制による正方形地割を短冊形地割に変え(天正の地割)、また禁裏御所は大改修されてその周辺に公家屋敷が集められ、市中の寺院は移転させて寺町・寺之内を造るなど、後の城下町のモデルとなった京都の大改造を行いました。聚楽第へは後陽成(ごようぜい)天皇、正親町(おおぎまち)上皇らの行幸もあり、北野天満宮では北野大茶会が催される等、京都は秀吉の権勢により華やかな時代を迎えていました。
聚楽第周辺の発掘調査
かつての平安宮北東部に豊臣秀吉が天正十四年(1586)に造営を開始した聚楽第は、堀と石垣で囲まれていた城郭ですが、文禄四年(1595)に秀次失脚の後、秀吉の命により完全に破却されました。そのため位置や規模などが明らかではありませんでしたが、発掘調査2で本丸東堀とみられる大規模な堀跡が見つかりました。東堀跡から出土した軒瓦のほとんどが金箔瓦で、本丸の建物に葺かれていたとみられます。近年の発掘調査4では、本丸南堀跡の石垣が発見され、初めてその実体がわかり、大きな成果となりました。さらに試掘調査1では、北ノ丸北堀石垣跡も見つかりました。試掘調査3では、西ノ丸南堀跡の南肩を確認しました。それらの調査の成果や、町名などにみられる地名などを繋ぎ合わせ、かつての聚楽第の姿に迫ることが可能になってきています。また、聚楽第周辺においても武家屋敷門跡5が発見され、京都御苑西側での発掘調査では、桃山時代の建物跡や数多くの金箔瓦が出土し、大名屋敷の主要な建物にも金箔瓦が葺かれていたこともわかりました。
発掘調査でわかった聚楽第跡地の説明や、関連する石碑の位置が記載されていますので、聚楽第跡を散策する際はこのマップを参考にすると便利です。
この歴史散策マップは現在、配布を終了しています。