百々橋口道をのぼったところに築城当時、摠見寺の本堂がありました。
摠見寺は織田信長が安土城築城にあわせて建立した寺院で、こうした堂塔伽藍を備えた寺院が城郭内に建てられているのは、後にも先にも安土城だけです。
1582年(天正10年)の天主崩落の際にも焼け残ったのですが、1854年(安政元年)11月16日に火災により焼失してしまい、現在は礎石のみが残されています。
摠見寺本堂跡
摠見寺は、織田信長によって安上城内に創建された本格的な寺院です。天主と城下町を結ぶ百々橋口道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが数々の記録に残されています。本能寺の変の直後に天主付近が炎上した際には類焼をまぬがれることができましたが、江戸時代末期の嘉永7年(一八五四)に惜しくも伽藍の中核部を焼失してしまいました。その後、大手道脇の伝徳川家康邸跡に寺院を移し、現在に至るまで法灯を守り続けています。
平成6年度に発掘調査を行った結果、旧境内地の全域から時代を異にする多くの建物跡が発見されました。南面して建てられた建立当初の伽藍配置は、密教本堂形式の本堂を中心に、その前方両脇に三重塔と鐘楼を配置した中世密教寺院特有のものでした。本堂の脇には、鎮守社と拝殿が建てられています。境内の南方は急傾斜地となっているため、参道は西の二王門・表門から本堂前を通り、東の裏門に通じています。建立に当たって、これらの建物の多くが甲賀郡を中心に近江国各地から移築されたことが、種々の記録から分かります。
その後、豊臣秀頼によって本堂の西に、渡り廊下で結ばれた書院と庫裏等が増築されました。江戸時代になると、伽藍の東側に長屋と浴室・木小屋・土蔵・木蔵など、寺の生活を支える多くの建物が建てられました。右の『近江名所図会」に描かれた様子を重ね合わせると、江戸時代を通じて活動を続ける摠見寺の姿がうかがえます。
西側を見ると、西の湖(琵琶湖最大の内湖)や八幡山が見えます。
この八幡山には安土城が焼失した3年後の1585年(天正13年)に豊臣秀次の居城として八幡山城が築城されます。