安土城の天主台跡(安土城だけは天守ではなく天主と表記します)は現在、背丈ほどの高さの石垣に囲まれた、東西、南北それぞれ約28mの台地となっています。
ここには礎石が1〜2mおきに整然と並べられており、かつての穴蔵(天主の地階)にあたります。
安土城天守台跡
安土城の天主は、完成してからわずか三年後の天正一〇年(一五八二)六月に焼失してしまいます。その後は訪れる者もなく、永い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまいました。ここにはじめて調査の手が入ったのは、昭和一五年(一九四〇)のことです。厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れました。この時に石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在にいたっています。
安土城天主は、記録から地上六階、地下一階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかります。これ以降、全国に建てられる、高層の天守の出発点がこの安土城天主だったのです。
皆様が立っておられる場所は、地下一階部分ですが、天主台の広さは、これよりはるかに大きく二倍半近くありました。現在では石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることができません。左の図は、建設当時の天主台を復原したものです。その規模の雄大さを想像してください。
安土城の天主
安土城の天主はいわゆる近世城郭の転換点となったといわれていますが、その具体的な姿については諸説あります。
太田牛一による『信長公記』や『安土日記』、さらにはポルトガル人イエズス会宣教師であるルイス・フロイスの著書『日本史』などを参考に、安土城の天主は高さ33mで、5重6階、地下1階で最上階は金色、下階は朱色の八角堂となっており、内部は黒漆塗り、そして華麗な障壁画で飾られていたとされていますが、多数の研究者がそれぞれの復元案を発表しています。
(外観や階数が異なる案もあります)
ちなみに三重県伊勢市にある伊勢・安土桃山文化村にある安土城模擬天守は宮上茂隆氏による復元案を採用しています。
"Aduchijou-mogi" by by D-one - photo by D-one. Licensed under CC 表示-継承 2.5 via ウィキメディア・コモンズ.
また内部には信長の御用絵師であった狩野永徳による豪壮な障壁画や装飾が施されていたとされます。
最上階が金色である点や、下階が多角形(八角形や六角形)である点など、それ以降に各地に建てられた近世城郭の天守と比べても特徴的な点が多い安土城の天主ですが、中央に礎石がないというのも大きな特徴です。
通常、高層の木造建築を建てる場合には中央に心柱を立てますが、安土城天主の礎石は中央部のひとつだけが欠けています。
発掘調査では、中央に礎石が抜けた跡はないことが確認され、またそこに空いていた穴からは、焼け落ちた天主の一部と思われる炭とともに、壺のかけらのような破片がいくつも出土しています。発掘時の推測では、この穴の上にはかつて仏教の宝塔があり(天守指図からの推測)、穴には舎利容器である壺が入っていたものと推測されています。
また、天守内部は吹き抜けとなっていたといわれていますが、これも確定した情報ではありません。
安土城郭資料館に展示されている天主模型は吹き抜け案を採用した内藤昌氏によるデザインとなっています。