長谷川秀一邸跡には織田信雄とその子孫の供養塔があります。
信雄の五男・高長は1632年(寛永9年)に信雄の菩提寺として徳源寺(宇陀市)を建立し、信雄から信武まで4代の遺骸が埋葬されていましたが、5代・信休の柏原転封にともなって、総見寺の寺域であった現在の場所に改葬されています。
(余談ですが、信休以降の廟所は丹波市にあります)
織田信雄公四代供養塔
初代信雄公徳源院殿實巌眞公大居士
寛永七年四月三十日 七十三才四代信武公圓明院殿定岩宗恵大居士
元禄七年十月三日 四十才三代長頼公徳雲院殿回岩宗頂大居士
元禄二年四月三日 七十才二代高長公瑞泉院殿一岩宗徹大居士
延宝二年八月十八日 八十五才
なお、数多くいた信長の子息の中で、江戸時代に大名として存続したのは信雄の系統だけです。
安土城に火をかけたとも伝えられる信雄の供養塔がこの地にあるというのも不思議な縁ですね。
また、長谷川秀一は織田信長に小姓として仕えた武将で、信長の男色相手として深く寵愛されたそうです。
信長の死後は秀吉に仕え、文禄の役では、兵5,000人を率いて朝鮮へと渡り、文禄3年(1594年)2月に病のため同地で亡くなりました。