安土城
安土城

[滋賀県][近江] 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦


  • 平均評価:★★★★☆ 3.93(17位)
  • 見学時間:1時間34分(14位)
  • 攻城人数:3879(17位)

伝森成利邸跡、伝織田信澄邸跡

大手道をのぼり、黒金門跡のすぐ手前に森蘭丸(森成利)や織田信澄(津田信澄)の屋敷があったと伝わる場所があります。

森蘭丸は織田信長の家臣・森可成の三男で、信長の近習として仕え、「本能寺の変」の際に主君とふたりの弟(坊丸・力丸)とともに討死しました。
信長は側近や諸大名に対し「自慢できる物」として第一に奥州から献上された白斑の鷹、第二は青の鳥、そして第三は蘭丸と述べたと伝わるほど、蘭丸は寵愛されていたそうです。

織田信澄は信長の弟である織田信行(信勝)の嫡男で、のちに信行は信長によって暗殺されるが、幼少の信澄は土田御前(信長と信行の生母)の助命嘆願もあって殺されることなく、柴田勝家のもとで養育されました。
元服してからは一門衆として信長の側近となり、安土城の造営においては総普請奉行である丹羽長秀とともに普請奉行として工事に携わるなど、織田一門の中では叔父の織田信包と並んで信長から厚く信任されていました。

ふたりの屋敷が安土城の中心部への出入口である黒金門の前にあることからも、両名が信長から破格の待遇を受けていたことがよくわかります。

   

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図説 近世城郭の作事 櫓・城門編

三浦先生が書かれた「近世城郭の作事 天守編」に続き、今回は「櫓・城門・土塀」編を読みました。特に、城門、土塀については書いてあることのほとんどが初めて知る事でした。城門の種類ですが、薬医門は安土桃山時代だけで、高麗門は文禄・慶長の役で朝鮮半島での築城時に発明され、構造は薬医門と変わりませんが屋根が小さいので防戦上で有利、屋根が小さいので用材が少なくて済むなど、関ヶ原の戦い後、薬医門から進化した高麗門に取って代わられたそうで、現在城跡に残っているのは圧倒的に高麗門で、医薬門は少ないとの事です。また、関ヶ原以前の櫓門では石落がないので、櫓門の石落は関ヶ原以降の発明と考えられるとの事を初めて知ります。土塀についても、付壁塀、築壁塀など色々な種類があるそうで、天守、櫓以外に城門、土塀にも注目することにより、新たなお城巡りの楽しみを再発見させてもらえた一冊だと思います。

まーちゃんさん)

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